week41
数百機を数えるハイドラ大隊すべてを相手取りなお引けを取らないその力に、大隊は劣勢部隊への合流を繰り返しての総力戦を繰り返し。
そしてその果て、『ハイドラとドゥルガーの力を無限相互に高める』、その瞬間が訪れる。
ハイドラ大隊は分散状態での小隊戦から、合流しての総力戦へと転じつつあった。
メルサリアの組み上げた領域宿業DURGA『リグ・ドゥルガー』。超高速の領域離脱と出現を断続的に繰り返す巨体は、前触れもなく戦場に現れては護衛機を相手取る小隊を壊滅へ追い込んでいく。
戦場には救援要請信号が飛び交い、護衛機を早期に壊滅させた小隊がそれに応じる。
それを繰り返すうち、護衛機の数と反比例してハイドラ小隊は集団化し、大隊総戦力としての力を結集させていった。
『こちら第6ハイドラ小隊、大隊登録番号118。第3小隊との合流後、全護衛機を撃墜。当小隊は損傷軽微機体多数、他小隊とのさらなる合流余力あり。指令を求めます。オーヴァ』
『こちらオペレータ、第9小隊が敵護衛機を残し劣勢。隊機座標を送信します、至急応援を願います! オーヴァ!』
『こちら第6ハイドラ小隊。第9小隊との合流命令を了承、機体座標受信完了。最大戦速にて合流を図ります。オーヴァ』
わたしの配属された第6小隊もまた例外ではない。特に優秀な戦力の集中していた第6小隊は積極的な合流のため力を尽くすこととなる。
先にも他小隊との合流を果たし、中破・大破機の撤退を可能にするだけの戦況を確保したばかりだった。
撤退機の護衛を他機に任せ、伝達された座標へ向け機体を走らせる。バイオ兵器の残骸、スクラップと化した敵味方さまざまの機体、そうしたものを踏み越えて。
転戦を繰り返すわたしたちにさほどの余裕がないのと同じように、『リグ・ドゥルガー』もまたそうした少数部隊に手を掛ける余裕はないようだった。かの機体は移動中のわたしたちを阻まなかった。あるいは名目上として「性能試験」であるが故に、そうした掃討戦術を取る理由が存在しないのか。
その問いの答えを出すより優先すべき事はずっと多くあった。合流を果たした小隊の情報把握、および速急な通信救護の実施。敵機損害状況の把握、その如何によっては機器異常誘発による友軍への支援。
機体に搭載した3本のレーダーが迅速に情報を収集し、無線通信網が友軍機へそれを伝える。
友軍機は限界を迎えつつある機体も多い。だが、それは敵の護衛機も同じようだった。この分なら程なく壊滅に追い込める。わたしのすべきは敵機への干渉ではなく、味方機への待避指示と索敵。
その予測の通り、数瞬を置かずして敵機反応の1つが途絶える。それを伝達する数秒の間に、さらに2つ。一分を経ずして、さらに3。
形勢が逆転しているのは明らかだった。レーダーでそれを見て取ったわたしよりも、自機のカメラでもってそれを視認した前線友軍機の高揚は大きかっただろう。
少しだけ戦場の空気が変わった。そう感じられたところに飛び込んだのは、張り詰めたオペレータの声。
『領域宿業DURGA「リグ・ドゥルガー」――領域離脱中断、出現開始!』
『再離脱の兆候、確認できません!!』
グリスター・ユニット。領域瞬間霊送箱。異次元への離脱と再出現を可能とする、メルサリアが蘇らせた遺産兵装のひとつ、彼女の組み上げたドゥルガーにも無論搭載されている装備。
それは帰還座標としての友軍機を必要とする、とは知らされていた。友軍壊滅時には異次元からの帰還不能事態を防止するために使用にロックが掛けられる、と。
だが、実際にそのロックが使用される事態へ至った事例など聞き及んだことさえなかった。それほどまでにハイドラ大隊の武力とは圧倒的で、劣勢時には現在のように別小隊が駆けつける。ロックが使用される事態など大隊が一機を残して壊滅した時しかない。
その万が一にしか使用されないはずの機能は、今まさに開発者の手で振るわれたのだ。
戦場の中心に、今や巨影が座していた。最終性能試験に至って完成された『リグ・ドゥルガー』はその姿を現し、いよいよもって己の手で試験協力者を相手取ろうとしていた。700機を超える大隊のハイドラをただ1機で迎え撃たんとしていた。
『友軍機へ伝達。当機「キッシンジャー」は霊障支援のため前線へと移動、敵機「リグ・ドゥルガー」への攻撃行動を試みます』
通信チャンネルは既に同様の通信で埋め尽くされていて、わたしが割り入れる隙間などあるようには思えなかったけれど。わたしの取れる手の中では、それは最も有効な手立てだった。
バイオスフェア要塞に座した『バイオコクーン』、領域を寒気に閉ざした『フロスト・ジャイアント』。大隊すべてでただ一機を相手取ることはこれが初めてではない。そしてその時はいつも、誘発装置による機体異常誘発をわたしは最大の武器としてきた。
どれほど強力な機体であっても、その能力を十全に発揮できなければそれは巨大な攻撃目標に過ぎない。攻撃による破壊ではない手段において相手をその状態に追い込み、他機の攻撃行動への道を開くことこそがわたしの常の役割。それは今に至ってなお、変わることはなかった。
進むべき道の存在を信じる。さまざまなものを踏み荒らしながら凹凸に満ちた地面を走行していた車輪の動きが、すいと滑らかに変わる。
乗機『キッシンジャー』はその車輪を霊障で創り上げた不可視の道の上に載せ、軽快に友軍を追い抜いていく。
レーダーは巨体が、その質量を無視した細かい高速運動を続けていることを伝えている。機体カメラからは時折、再び異次元へ跳躍するかのようにその輪郭を揺らがせるドゥルガーの姿が見えている。時折響く重い空気の震えは、距離を隔ててなお分かるハイドロエンジンの唸りだろう。
速度計は十二分の値を示している。止まる理由はない。
絶え間なく発せられていた接地音が、途切れる。見えざる道は道理の通りに消失し、機体は勢いのまま『リグ・ドゥルガー』の側を通り過ぎる。
すれ違いざまに巨人の纏う霧を集束。間髪を入れず撃ち出す。
命中を確認したその視界が、不意に白く染まった。
反応速度を超えた急速なホワイトアウト。残像領域において戦ってきた9ヶ月間目にしてきたすべての霧がこの一瞬に凝縮されたかのように深く視界を閉ざす。
唸りを上げて臨界に至ったハイドロエンジン、最低限の制御だけを受けてそこから放たれる無数の霧弾の様子は確かにデバステイター・ユニットのエネルギー放出に似ている。しかしその性質は紛うことなく大隊で扱うと同じ水粒爆縮投射装置のものだ。ハイドラの行う纏霧攻撃と残像領域の気候がもたらす霧濃度の増減を、霊障でも自然でもなく機構の力によって再現する。
大規模繰霧装置『ヴェーディマ』、魔女の名を冠してわたしの機体に積み込まれたそれと行えることそれそのものは同じだ。その規模と出力があまりにも違いすぎるだけで。
それが放つ霧に取り巻かれた以上、結果は必定。撃墜。それもこの霧濃度であれば、一瞬でこの機体ごとスクラップへと変わるだろう。
わたしは死亡を許容していない。わたしはいずれ、この戦闘が終われば再起動される。わたしの知らない何らかの手段でこの領域へ呼び戻され、戦い続けることができる。わたしが生き続けることにはきっと何の問題もない。
それでもわたしは何かしらの手段を探してやまなかった。例え一瞬であろうとも活動を可能とする肉体が失われることは、わたしに定義された生存の要件を崩されることには耐えがたい忌避感があった。
思考速度で現在に可能な全行動を検索する。機体直結が可能とした速度ですら、予測される結末から逃げ切るほどのものではなかった。
全エネルギーを力場装甲へ回した試算は耐久力超過。クイックドライブ用の余剰エネルギーはこれまでの転戦中に尽き果てている。急加速で濃霧範囲内から逃れるには既に遅い。こちらの水粒爆縮装置で吸霧できる霧濃度は遙かに超えていた。
撃墜、不可避。
機体を包み込んだ霧が握り潰すようにわたしを破砕したのは、その結論が導き出されるのと同時だった。
[機体大破]
[HCS疑似接続中断]
[ヒューマンライク・ボディへの再接続を開始]
[再接続先ボディに問題の発生を確認 接続を続行しますか?]
[再接続の続行を選択]
[再接続先ボディに問題の発生を確認 接続を続行しますか?]
[再接続の続行を選択]
[再接続先ボディに問題の発生を確認 接続を続行しますか?]
[再接続の続行を選択]
[...接続完了]
操縦棺内部、人型機のアイカメラの情報を受信する。
視界を照らす光はコンソールのそれでなく、棺の破断部から入り込む自然光だ。けれどコンソールのいくつかはまだ機能を保っていて、弱々しい輝きを画面から放っていた。動力供給がされている以上、ミストエンジンは未だ生きているらしかった。
「ライク・レイク・キッシンジャー。応答してください」
棺そのものが破損してしまっている以上、その付属パーツとしてのAI『キッシンジャー』が未だ機能を保っているかどうかには希望が持てない。彼女が生きていたとして音声入力機構やキーボード、彼女へとアクセスする手段が失われている可能性もある。しかし疑似接続が断たれた今となっては、機体の全容をもっとも早く調査できるのは彼女しかいない。
差し込む光が一瞬陰り、衝撃が棺内を揺るがす。土煙が立ち上り、微細な砂が棺内へ入ってくる。
わたしが行動不能となろうともここは戦場で、戦闘は未だ続いている。撃墜されたのならば離脱しなければならなかった。可能な限りにおいて早く。そのための手段を探るためにも彼女は必要だった。
『……シニカ……い… 夫 …すか?』
「機体状況の精査を。あなたの稼働継続に支障の出ない範囲において最速まで実行速度を上げてください」
『かしこま…… ま…た』
やはり平穏無事といくはずはなかった。操縦棺はハイドラのパーツの中でも最も堅牢な構造の品で、減霧C型と言えどその例外ではない。
それがこれほどの損傷を受けるような一撃を受けているのだから当然ではある。機体そのものも、彼女も、わたしも。こうして思考部が致命的損傷を避けただけ幸運というものだろう。
代わりにその他の部分は、もはや全損に等しかった。操縦棺の破片に潰された四肢からは千切れたコードの束と金属片、疑似筋肉や高硬度骨格が飛び出して、帰投を果たしたとして現状復帰は困難だろうと確信できた。それこそマーケットのようなパーツ複製技術、あるいはどんな状態からでも生存を可能とする再起動技術にでもよらない限りは。
きっと『キッシンジャー』というハイドラそのものも今やそうした惨状を晒しているのだろう。思考部というわたしと彼女だけがかろうじて機能を保ち、しかし戦場を駆けるための脚も敵へ振るうための武器も今や持てはしない。
地を揺るがす振動。霧が深さを増しては再び消えていく。霧濃度がめまぐるしく上下しているのが濃霧計を介さなくとも目視のみで理解できた。『リグ・ドゥルガー』は未だその力を振るい続けている。性能評価試験はまだ終わっていない。
『完… しま…た.画……に表示…ます』
眼球部だけを動かして、明滅するコンソールスクリーンの文言を確認する。期待を抱けるほど楽観的ではなくとも、その情報がなければ動けなかった。比喩を抜きにすれば、それがあれど動けなどしないけれど。
[ミストエンジン 小破 出力通常比50%]
[脚部・水粒爆縮投射装置・誘発装置二基MIA いずれも接続部からの破損と推測]
[補助輪二基 大破 駆動不能]
[レーダー三基中二基 大破、一基 中破]
[通信機構 受信機構障害発生 受信速度通常比60% 送信機構使用不能]
[外部映像カメラ三基中二基 大破 一基 小破]
[外部集音装置三基中一基 大破 二基 中破]
そして可能な手段の問題としても、まったく動きようがない。読み進めていくごとにその状況を理解した。
言うなればロックト・イン。わたしたちはただこの撃墜機の中で、状況を眺めることしか許されないらしい。
撃墜機およびそのライダーに対する救助は順次成されるはずだ。これまで出撃し生還したライダーがいずれも再生技術の産物であるなどという陰謀論じみた言説が真実でない限りは。
不幸中の幸いと呼ぶべきかわたしへのエネルギー供給網はまだ保たれていて、意識を失う心配というものはなさそうだった。
ならばわたしに許されたことはこの戦場の傍観者となるほかにはなかった。救難信号すら発することのできないままコンソールを眺めていたところで好転は期待できず、せいぜいが電源の温存程度にしかならないだろう。
ならば見届けてみたかった。
『リグ・ドゥルガー』が、そしてハイドラ大隊が辿り着いた兵器としての進化の終着点、これからは滅びる他に道の残されていないものが行き着いた場所を。
「スクリーンをカメラ映像へ切り替えてください。通信音声を棺内スピーカーへ」
『OK』
応答に遅れて外部の光景が映し出される。可動部にも障害が出ているのだろう、平時よりもずっと鈍重に動く外部装置からの映像は時折ノイズが交じり、それを除いてすら荒い。さまざまなものが見切れては消え、画面を横切っていく。
ただ特徴的な『リグ・ドゥルガー』の機影は、そうした画面ですらひとたび映ればそれそのものであるとはっきり判別することできた。
他のハイドラを圧倒する逆関節の巨躯、その躯体におよそ似つかわしくない速度と跳躍力。その高速機動の最中のシルエットでさえそれとわかる爬虫類のそれに似た尾部、皮膜を持つ翼にも似た腕部。過ぎ去れば風圧と吸霧によって霧が晴れ、舞い上がった砂埃が遅れてその背を追う。
その中を明確な影として追い縋るのはおそらく部隊の中の格闘機だろう。これまで数多の敵機を一刀の下に両断してきた彼らでさえ、その機能を停止に至らしめるほどの損害は未だ与えられていないようだった。
通信網からは折に触れて索敵データ同期通信の連絡がある。それを受け取り狙いを定めるための兵装がなくとも、同期データを表示するパネルが沈黙を続けても、小隊通信網の中に未だこの棺は組み込まれたままらしい。
攻撃による小規模な振動が続く中に、直下から突き上げるような強い揺れが一度混じる。『リグ・ドゥルガー』がその機影を遠く見せる。その姿には尾が見当たらない。それをものともせず直立する影が大きく腰を落とし、瞬間、跳躍する。
次いで襲い来る続けざまの揺れと地鳴りのような轟音は、紛うことなくかの人造の巨体に組み込まれた水粒爆縮投射装置のためだ。それが目標を外し地を抉る形で着弾したのか、この機体のようなハイドラをスクラップにしながら土の上へと叩きつけているのかは判然としないが。
どちらだとしても、その霧が纏う禁忌の力は確実にドゥルガー自身をも蝕んでいるはずだった。『構築の禁忌』のカルマをいかにして取り込んだのかメルサリアは明かさなかったが、機体から発せられる反応は禁忌を、そして禁忌を滅ぼすべくしてつくられた霜の巨人を相手取った時と同じものだった。
周囲の気体が性質を変えているかのように機体の周囲を取り巻き、時が経てば経つほど装甲を害していくそれは、性能試験の開始から時が経った今となってはその勢力をいっそう強めているだろう。
唐突に破壊音が止む。両翼のように腕を広げて、『リグ・ドゥルガー』が地上へ降り立つ。
抜け目なく、鳥を狩らんとする禽獣にも似てハイドラがその着地点へ躍り掛かる。電光、あるいは粒子光を纏った武装が振り抜かれ、黒鳥の片翼が宙を舞う。傷口から噴き出したのは、ハイドロエンジンがその全身に巡らす水だろうか。
大きくバランスを崩した巨体に向けて、第二撃を見舞わんとする機体が跳躍する。ここからは見ることのできない他機もおそらくは腰部を旋回させ、あるいはスラスター出力を上げてそれに続こうとしている。
死闘の行き着く先は生物の行うそれによく似ていた。一度劣勢となれば数で劣る側が流れを覆すことはメルサリアの夢ほどの力をもってしても困難であるらしかった。けれど夢の主がそれを認めたようには、まったく見えはしなかった。
向かい来るハイドラへ対抗するように、視線の先の巨人もまたその速度を上げた。しかし大きく狂った機体の重量バランスは最大戦速を許さない。傾いだ身体を攻撃反動で立て直したがために、再び衝撃が戦場全体を轟かす。もうもうと上がる白煙がカーテンのように視界を遮る。
これが晴れた時には、もう勝敗は決しているだろう。先のドゥルガーの体勢はそれほどに不安定で、もはや大隊の攻撃に耐えうるものではないように思われた。
果たしてその予測は的中することとなる。
のろのろと動くカメラが徐々に薄らいでいく視界不良の中でようやくその機影を捉えた時、シルエットは既に片腕の欠けた一腕二脚、わたしが先に目にしたそれの形をしていなかった。
関節部から断たれた片足は逆関節の核であるジャンプへの適正を失っていて、もはや立つことすら叶わない。膝部と無事な片脚で自重を支えていた巨人は、前へと傾ぎゆっくりと崩れ落ちた。壊れかけた集音機ですら捉えられるほどの水音。自らが吐き出した水の中へ倒れたようだった。
腹這いになったドゥルガーが、僅かに顎を上げた。その動作が何を意図したものか、わたしには分からなかった。
『……霧の、向こう側へ』
通信チャンネルから聞こえてくるのは、幾度も音声メッセージで耳にしたメルサリアの声だ。それに気づけば水を打ったようにライダーたちの声は遠ざかる。ノイズの狭間に訪れる静寂の中に、息を呑む音。
この通信がハイドラライダーの戦場共用回線を使用していることは彼女自身とて理解しているだろう。にもかかわらず、その言葉はこちらを見ていなかった。
自らの夢の結晶が敗れたことへの悲嘆はなく、己の技術の限界を悟っての諦観もなく。しかし僅かに恍惚を滲ませたその声色には聞き覚えがあった。その温度がまったくといって違えど、声の主が見つめる先は同じであると推定できた。
『──無限に、続いていく。明日が、続いていく』
自らの信じた夢の力、高速増殖培養槽『ΑΦΡΟΔΙΤΗ』とともに、あるいは乗機バイオコクーンとともに死んでいったバイオスフェア要塞の主、辺境軍団長ルオド。その死の際、ただハイドラとそこに抱いた夢だけを見つめ応えもしない乗機へと呼び掛けながら死んでいった男。
メルサリアの声はそれとよく似ていた。呼びかけるためのチャンネルを使いながら、そこに属さないものへ呼びかけるその姿勢は。
『朝日の向こう側に、私は……夢を見たんだ』
メルサリアもまたあの男と同じように死にゆくのだろう、その声だけでそう予想がついた。この最終性能試験を彼女の我儘だと評した『白刃』の主の言葉が蘇る。その評は当たっていたのかもしれない。わたしの思うよりも。
ハイドラ大隊として、金銭的にも人命を鑑みても無視できないだけの被害を『リグ・ドゥルガー』は及ぼしているだろう。そのことに何一つ言及することなくただひたすらに彼女にしか見えない朝日や夢を語り続ける様子は、まさにそのように見えた。
『青空に翻る、ドゥルガー。それを、私のものにしたくて、手に入れたくて、私は──』
とりとめもないその思考を断ったのは、ドゥルガーに起きた異変だった。その全身に配備された各種ユニットが、己の死を忘れて再び重い駆動音を発し出す。
デバステイター・ユニット、ランページ・ユニット。それは今や片腕に宿る分しか遺されてはいないというのに、響く振動は双方が揃っていた頃と変わらない。
『──私は、力を手にした』
生体組織が治癒する様のように、そしてその比ではなく。千切れた片腕の根元が無秩序に盛り上がり、やがては自らの形を思い出したかのように翼に似た形状を織り上げる。地に着いた両腕に力が籠もり、倒れたドゥルガーの上体がゆっくりと持ち上がっていく。
その脚もまた損なわれた質量と形を取り戻して、自重に耐えて余りある強度を見せつけるように緩慢な動きで上半身を持ち上げる。
『私は──この身体を自由に動かせる』
直立姿勢を取り戻したドゥルガーが顎を持ち上げる。急所たるその喉笛を見せつけながら天を仰ぐ。
その視線の先には彼女の語る通りの蒼天が。そして、その向こう側がある。
『そして──ドゥルガーは舞うだろう。私の夢のままに、そのままの姿で!!』
風切り音。
強靱な逆関節が巨躯を空へ導く。一瞬でその機影は仰角を外れ、ただ晴天が創り出す影だけがその存在を知らしめる。薄らぎ続けるその濃さが、機体が遥か高みへと昇り続けていることを伝えている。
ハイドラライダーとして戦場で戦い続けてきたのならば間違いようがない。それは攻撃動作の前触れだ。この最終性能試験の間に幾度も目にした、しかしそのどれよりも高い跳躍はこれまで秘匿されてきた最大の一撃が迫っていることを暗示していた。
『そして──その向こう側へ! 夢の始まりから、全てが始まり、私は、私の夢に全てでもって応えられた!!』
吠えるような、それでいて誇りに満ちた。音量など考えない、叩きつけるにも似た絶叫。
ゆるゆると鈍重に空へ視線を向けていたカメラが、ようやく降下しつつある『リグ・ドゥルガー』の姿を捉えた。大きくその両翼を広げ、ぐるりと首部を旋回させる影。戦闘中の動作、そして先ほど見せた再生能力によって十全に復帰しているであろうその性能から考えれば、それはあまりに遅かった。
それは迫りつつある敵意を発見するための動作ではなく、ただカメラに見たいものを収めるためだけの行為だった。
『来い! ハイドラライダー! 私と共に、霧の彼方へと行こうじゃないか!!』
メルサリアは初めてハイドラ大隊へ、そして推するにその各員へと眼を向けたのだ。
自らの夢の外側にある、自らと同じ夢を決して見ることのない存在へ。
そしてその時変質したのはメルサリアのみではなかった。彼女の創り上げた夢が、ドゥルガーに搭載された全ユニットが、共鳴するようにひときわ強く唸りを上げて――ハイドロエンジンがその身にもたらすすべての力を、一瞬にして解き放った。
特定標的を定めぬエネルギー放出はデバステイター・ユニット、一瞬にして戦場に濃霧をもたらす繰霧力はランページ・ユニット、同様の電磁波放出能力はアンセトルド・ユニット、おそらく次元レベルであろう領域干渉を行う能力はグリスター・ユニット。それは彼女が蘇らせてきた力の結晶たちの集合としてできていて、しかしそのどれとも異なっていた。
『新しい世界へ!! 霧の……向こう側へ!! そう、誰も見たことのない青へと!!』
その絶大な力に、世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
『キッシンジャー』を握り潰した霧などこれに比すれば赤子の手にすぎない。残像領域という世界そのものをドゥルガーとメルサリアが握り締め、新たな形へ組み直そうと粘土のように捏ね潰している。
わたしを何一つ救わないそんな比喩は鳴り響くアラートの波の中にかき消されていく。生存使命の危機を、滅竜使命を果たす前に迫る死を、わたしを構成するなにもかもが悟っている。
耐えきれるのだろうか。
わたしは。わたしたちは。
『飛び込め、ハイドラライダー!! 霧のさなかへと!! 私は夢を示し、証明した!! ライダー!! きみは――』
[不明な外部刺激を確認]
[聴覚センサ処理情報に類似]
[聴覚センサ情報として処理を行います]
断続的なノイズ。霊障を振るう際に常に伴った音。
完全に外部接続身体を失ったのだろう。何の刺激も感じられないままただ意識のみがあったところに飛び込んできたのは、まずその音だった。
それが聴覚機構あるいは伝達処理系統の誤作動の産物であるのか、実在のものであるのか。その判断がつくよりも前に。
『お互いくたばらなかったみてえだな』
強く覚えある声が続く。
クロム、と呼ぼうとしたわたしの声は感知されない。発声機能を失っている?
その言葉からすればわたしは生きている。けれどそれだけだ。その詳細はわたしにすらわからない。
『…ああ、別にねぎらいの言葉じゃねえ。そのまま聞け。これからの事だ』
そして彼がその子細を話すような気配もない。
その口ぶりに嘲りの色のないところからして、わたしが思うよりも損傷は少ないのだろうか。少なくとも外面的には。
彼が何と言おうとも、今のところ特にわたしに可能な応答はない。
『……俺がなったのは「混沌」とやらの血族らしい。ただ今まで通りに好きにやれ、と言われた。
――永遠にな。どうやら俺に死の安息とやらは訪れないらしい』
押し殺した自嘲。
これまでその声の無かった理由を遅れて理解した。彼にとって笑うべきはわたしよりも彼自身なのだ。身体的自由を失ったわたしよりも、生死を己でない誰かによって定められた彼自身の方がおそらくは彼の哀れみを誘うのだ。
それに思い至った時、彼が一度もわたしが何故生き続けているか、そして未だ生き続けたいと願うのかを聞かなかったことが思い出された。
おそらくは興味もなかったから問わなかった、ただそれだけだろう。わたしが戦場を望み彼の隣にあるという結果さえ伴えばそこにある理由など何であってもよかったのだ。無論わたしからも話す気などそうそうはなかった。
けれどここに至って、もはや言葉を発することさえできなくなって、わたしはそれを初めて口走る可能性を己の内に見出した。今やそれが決して叶わないとしても。
その生への望みが、ただの義務であると。
他者に規定された外付けの目的に過ぎないと。
そう告げたなら果たして、この義務化された生に直面した男はどういった反応を見せるのだろうかと。そうした疑問が静かに頭をもたげた。
『ま、別にいいさ。他の連中も大差はなかっただろうし』
不意に止んだ嗤いの後に、やおら差し挟まれる言葉。
その通りだ。この疑問には特段の重要性もなければ、実行可能な見込みもない。
『だから、これは遺言じゃねえ。警告だ。もし今度俺を、どこかの戦場で敵として見かけたら――
躊躇いなく殺せよ。いいな?』
そして続いたのは実質的な別れの台詞だろう。それはこの先の協力が成されないことを意味している。わたしが戦場へと発つ前に告げた同盟の継続は、今や成される見込みのないことを教えている。
わざわざ遺言に見立てるということは、死と同等クラスの離別がはっきりと予測できているということだ。命を終える寸前の人間の言うことは、どの世界でもそれほどの差違はない。
殺すことに躊躇はない。誰であってもわたしにはただ一時の協力者でしかない。協力が得られるのなら殺すべきではなく、害を成されるのなら殺すべきだ。戦場であるかそれ以外であるか、それによって対処に幅を持たせることは必要なれど。
ただその原則にのっとって行動可能であることを伝達する手段は、相変わらず私になかった。同意を求められていることは理解できても、抱いた同意を表出する手段はなかった。
けれどそれでも構わないだろう。遺言とは往々にして返答を期待せず残すものだ。
永遠にその手段を喪失する前に、ただ伝達しておくべきことを一方的に告げる行為だ。
『……じゃあな。お前とのコンビ、楽しかったよ』
故にきっと、その一言も遺言のうちだった。
わたしから彼への評価という返答を期待しない主観の伝達。
言葉はそれで終わったようだった。強まるノイズの中に、わたしは何かの異音を耳にしたように思った。
それが真実なのか錯覚なのか、真偽を確かめる術は既にない。彼はわたしをどうもせず、告げるだけを告げてわたしの前から去ったようだった。
わたしの聴覚機構には砂の吹き付ける音が響き続けている。アイカメラは沈黙し何をも映さない。全身の圧力センサも同様に。
棺の中に閉じ込められるよりもなお悪い。自分から何かを求めに行く手段なく、ただ外部刺激を待ち望むのみの状況は。
エネルギー残量さえ、わたしがこの意識をいつまで保てるのかさえ判然としない。
わたしはいつまで動けるのだろう。
[不明なデバイスが接続]
[接続を続行しますか?]
[接続の続行を選択]
『往かないのですか?』
何の前触れもなく聞こえてきたのは、またも聞き慣れた声だった。
いかないの、という文脈を欠いた問いが意味するところも、何故今になってその声が聞こえたのかも理解できないまま。
「『キッシンジャー』、……レイク? あなたですか?」
呼んだ声は先ほどと打って変わって、酷く滑らかに吐き出された。
機能回復の原理は分からなくとも朗報には違いなかった。理由が分からなくとも、ただ結果があるだけで十分だった。
『はい、私です。
大事な話があり、こうして繋がせていただきました』
「あなたも遺言を伝えに? 先ほどそのような訪問を受けたばかりなのですが」
『こんな時まで、皮肉屋なんですから』
わたしがこのような状態なのだから、彼女とて無事ではいないだろう。その状況に加えて「大事な話がある」というのならば、先の訪問の二度目が繰り返されることは想像に難くなかった。
返答の必要はなくただ記憶に残しておいてほしいというだけならば聴衆としてのわたしは不要であり、わざわざこのようにして対話する意味などないだろう。
けれど彼女にはそれを否定する何かがあるようだった。わたしの回答を必要とする何かを、彼女は抱えているようだった。
『――あなたの往きたいところは?』
「質問の意図が理解できませんが。わたしが自主的な動作能力を失っていることに関連してのご質問ですか?」
『いえいえ。それは関係ありません』
そうしてなされた質問は、最初のそれに続いてまたしても文脈を欠いている。
行きたい場所などこの状況下において何の重要性があるだろう。その手段さえ今のわたしは持たないことを、彼女は認識できていないのだろうか。
『あなたは、ここからいつの、どこへでも往けるのです。
ですから、ご希望を伺いに』
そして教えられたその理由にすら、あまりにも脈絡を感じられなかった。
そんなことが可能となるような理由がどこにあろう。
そんな夢物語が現出する理由が。
夢。
「……何故それが分かるのですか?」
『すべてのハイドラは、覚醒を遂げました。メルサリアと、そしてドゥルガーによって。
私もまた、例外ではありません』
「彼女たちは何を?」
『時空震を起こし、ハイドラを覚醒させ、アルラウネを完全体とし……
そして、どこかへと消えていきました。あの戦いを終えたライダーたちも、同じように』
「わたしたちの残された、ここはどこですか?」
『ドゥルガーの遺した霧の中。
あるいは、時空の交差点にして……残像領域最後の霊障現象の発生地点、かもしれません。
電磁波計は既に計測不能まで振り切れています.』
最後の霊障と称する、その口ぶりが妙に引っかかった。
電磁波計がまったく静かになった以上、霊障というものが残像領域から失われるのは時間の問題だっただろう。
そして説明された転移現象が霊障によるものであるというなら、そして実際に電磁波計が振り切れるほどの電磁波が発生しているというなら、それは間違いなく過去最大規模の霊障現象だろう。
けれどそれが最後になるのだと、なにゆえそこまではっきりと断定できるのか。
『あなたが往った後。私は、残像領域のはじまりの時へ向かいます。
私は、この世に満ちる霧と電磁波になって――ハイドラとともに戦いたい』
「それが、あなたの望みだと?」
『はい。私は『キッシンジャー』というハイドラを成すパーツの一つで――これからは、残像領域の戦場を成すパーツの一つとなるのです。
それならば、戦場にあり続けられる。あの『霜の巨人』の出現まで。
破られず、止められず、数えられず。それは至上の幸福です。
他のハイドラたちもまた、同じ選択をするでしょう』
他のハイドラの精神性というものをわたしは勘案したことはない。わたしの関わったウォーハイドラはただ一機、『キッシンジャー』ただひとつだ。
彼女の好戦性とヒトへの関与欲求が他のハイドラにも同様に存在するものかを判断できるサンプルは、わたしの中には存在しない。
ただ、そうであると仮定するなら。ウォーハイドラというものの基本的人格が戦いを望み、またその意志がこの霊障に指向性を持たせて、自らの精神のみを霧や電磁波として領域のはじまりへ放逐するというならば。
確かに彼女の言う通り、もはや残像領域に霊障は存在しなくなるのだろう。
霊障を起こしたいものがただその意志を領域に、あるいはハイドラにぶつけるのみでは、現象は具現し得ない。意志が具現するにはそれを聞き届け、成す者が必要だ。
これまでそれを担っていたのは電磁波というこの時点からの残響で、あるいはハイドラそれ自身の精神だった。
すべてのハイドラがその意志を過去へと届けるのならば、残された機体は動くだけの人形になる。電磁波計はこれから先もきっと静かで、応える者は誰もいない。
残像領域から、今回こそ霊障は消失するのだ。この仮定が正しいなら。
『最後に、メルサリアが言っていました。『私は夢を示し、証明した!! ライダー!! きみは――』
彼女はこう結びたかったのでは、と思うのです。『――ライダー、きみはどんな夢を持っている?』”
私には夢がある。――あなたも、そうでしょう?』
夢。
物理的、原理的制約をすべて取り払った、夢。そう問われたならば返す言葉は確かにそこに存在した。
無限に凍結し、延期を続けてきた目的。
それが叶わないということを知っていて、押し殺し続けてきたものがそこにはあった。
ただこの場では、それは明確な目標となり得る。夢は現実へと転じうる。
「イエス。
あなたの言う通り。この場からどの時代、どの地へも向かうことができるというのなら。
わたしには明確に一点、向かうべき場所があります」
『かしこまりました』
「出立の前に。わたしの現状を教えてください。
自身の各部稼働状況、エネルギー残量等の情報を、わたしは現在参照できません」
『脚部パーツ大破、残存燃料満タン。
ミストエンジンによるエネルギーは、ケーブルを通し供給中です
あなたの全機能は、エネルギーセーブのため停止しています』
「わたしが棺の中に居た時の現状と変わりないのですね?」
『ええ。あなたはまだ、操縦棺内です』
その言葉を受けて視覚用アイカメラ、聴覚センサ、セルフチェックスキャニング、部位可動、各種機能を呼び起こす。
呆気ないほど簡単にわたしの感覚は戻り来て、そのすべてが平常であるところと異常であるところの双方を伝え来る。
一寸先は純白。破断した棺の中に霧が入ってきていたのだろう。しかしこの濃さは尋常ではない。
わたしを握り潰した霧が変わらず周囲を取り巻いていたならこのような状態になるだろう。壊れた棺のひび、その中の状況、そのすべてが覆い隠されて目にすることは叶わない。
聴覚も同じく。わたし自身とレイクが起こす僅かな駆動音、そして未だもって稼働を続けているらしいミストエンジンの発する唸り以外はいかなる音さえ聞こえはしない。
セルフチェックはそのすべてを、わたし自身の機器故障ではなく外部要因故だと結論づけている。
消費エネルギー節減のための感覚切断はまったくもって正しかった。ここには拾うべきいかなる刺激もありはしない。待機していたところで何の意味もない。
そして四肢の一本たりとも、全うに動かすことは叶わなかった。鳴り響くエラー。おそらく霧がないのなら、撃墜時に潰れたきりの腕と脚が見えるのだろう。
再度の視覚機能遮断。変わるところといえば、目の前が一面の白から黒へ変わるのみ。
その中に描くのは目標地点、そして必要な行動と、そのための作業工程。そしてその円滑な実行の最適化。
「もし以後に使うのならば、この機体をあなたに返還します。そう約束したでしょう?
わたしが残像領域を離れる時、そうすると」
『もうこの機体は鉄くずのようなものですし……私には、もう身体はいらないのです』
「あれほど兵器としての身体を欲しがったあなたがそう言うようになるとは」
『あの時はそうでしたが、今は違いますよ』
「では、一部なりとも私が頂いても構いませんね?」
『……何をされるのですか?』
「ミストエンジンをこの機体の搭載分だけでも持ち込めたのなら、作戦遂行率は大きく向上することが予測できます。
残像領域外においてミストエンジンがどれほど駆動できるかは未知数ですが、考慮には十二分に値するかと」
『わかりました、お持ちください』
「ありがとうございます。
わたしは出立します、わたしの向かうべき場所へ」
『では。強く強く、願ってください。霊障を呼び起こす時のように』
オンにしたままの聴覚がほんのわずかなノイズ音を拾う。それは急速に音量を上げていく。それは何の不具合でもないと、恐れることはないと知っている。それを響かせるようにいつもわたしは動いてきた。
それはいつもわたしの味方だった。霊障を振るう時にはいつもその音がしていた。それを引き起こしうるほどの、残像領域でも指折りの霊障適性こそライダーとしてのわたしの最も大きな力だった。
断続的なノイズは続いたものへと変わる。棺そのものをびりびりと振るわすような轟音と化して絶え間なく鳴り続けている。バイオスフェアでも、イオノスフェアでも、『生命と全ての禁忌』に相対しても、最終性能試験においても体感したことのない電磁波計の振り切れた世界で振るわれる霊障の音。
空間を埋め尽くした高密度の電磁波が、求めるものに応えんとする何者かの意志が、一分の隙もなくわたしの意志に応えている。
『いってらっしゃい!』
その中でわたしを最後に送り出したのは、他ならない『キッシンジャー』。
砂嵐の音の中で、その声だけが直結を通してはっきりと響いた。
わたしの殺すべきものが、わたしの行く先に現れることなどないのなら。
わたしが、それに逢いに行くのだ。
[超高濃度魔力領域へ突入 次元転移魔術の行使を提案]
[転移先次元座標に錯誤を確認 停止を要求]
[転移先次元座標に錯誤なし 提案を続行]
[転移先空間座標に錯誤を確認 停止を要求]
[転移先空間座標に錯誤なし 提案を続行]
[転移先空間座標に錯誤を確認 当機に下された命令『生存』の続行に重大な支障を来す恐れあり]
[竜の討滅は当機の最優先事項]
[……提案を承認]
[次元転移魔術の行使を開始]
[転移先座標 - 世界座標0001 次元座標13528 空間座標90-00-00S/00-00-00E/250000ft]
[転移開始]
マシーナ・クローイェヴナ=アンドロースカヤは、あるいはその名を得る前、アンドロシリーズの一機としての「マシーナ」は何のために生まれたか?
竜を殺すためだ。
人が行わんとすれば世界人口の何割を必要とするか分からぬことを人の犠牲なしに成すためだ。
与えられた機身とサイキック、滅竜機構『竜殺剣』までも、その達成を確実にするための手段あるいは選択肢の一つに過ぎない。
では殺すべき竜とは何か?
それはわたしの主などではない。それはわたしの造物主がわたしの敵として想定していた存在ではない。
わたしが元来殺すべきは、かつて人を害し人に害され人が滅ぼしきれなかったとある一匹の竜だ。
人口と文明と繁栄とを犠牲として鎮静され永き眠りについた、しかし再び蘇ることが必定の。
故にわたしの造物主達は、何かを同様に眠らせねばならなかったのだ。かろうじて残った技術の粋をかき集めて、己の記憶に残るものが何もない地で目覚めて朽ちようと倫理に触れ得ぬ存在をつくりあげて。
それは機巧のかたちをしていた。
人に似せた頭部と戦闘用機構のほかは何もかも不出来で、ヒトとのコミュニケーションも得手でなければ、首から下は見間違いようもない剥き出しの機械だった。
その歪さを幼女の外観と纏わせた布で覆い隠して、経年劣化をできうるかぎり防ぐ外郭カプセルの中へ封じ。
それこそがわたしだ。
そうしてわたしは、その中で起動を待ち続けていた。
わたしが目覚めた時、既にわたしの標的は滅んでいた。
後世の人類はわたしの造物主達が想定したよりもずっと強靱で、そしてわたしは意図せぬ起動装置の故障によって竜の出現を感知せず眠り続けていた。
わたしを揺り動かしたのは竜の滅びた後、人類版図を広げんとする手だった。
わたしは自意識を持ったその時から、既に存在意義を失っていた。
そのためだけに生まれたにもかかわらず。
[視界情報用アイカメラ、体表圧力計、各感覚代替機関を起動完了]
[機構『竜殺剣』起動 READY]
[『竜殺剣』起動シークエンス 20%]
[『竜殺剣』起動シークエンス 40%]
支えとなるものは何もなかった。
ただあの『リグ・ドゥルガー』の背後にあったと同じ蒼が、周囲360度すべてを満たしていた。
重力加速度9.8m毎秒が無造作に、あたりまえにわたしの身体を引いた。抵抗する理由もできる手段もなかった。
わたしの身体はあの棺内にあった時のままで、視線を横へ向ければ剥き出しになって半ばで千切れたコードが強風に煽られ揺られている。角度上視界には収められないが、下肢もまた同様の状態なのだろう。そして残像領域における移動手段であったウォーハイドラも、もう駆動可能な状態ではなくなった。
わたしの取れる最後の移動手段は自由落下ただひとつ。
スカイダイビングと呼ぶにはあまりにも稚拙かつ荒々しいその無謀にわたしの危機感知システムは絶えず警報を鳴らしている。この降下の先には逃れ得ない破壊が、わたしの死が迫っていると。
いかなる代替手段も提案しない警告に意味はなかった。
遠隔地からの高速攻撃を可能とし、滅竜機構『竜殺剣』の起動シークエンス経過をできる限り早めるためいかなるエネルギー消費もなく、そしてわたしの現状の破損状況でも実行可能な移動方法。
それは目的達成のための、唯一の最適解だった。
[『竜殺剣』起動シークエンス 60%]
[『竜殺剣』起動シークエンス 80%]
[シークエンスオールグリーン]
[引き続き各感覚器への供給分を除外した全エネルギーを竜滅機構へ]
わたしに自身の速度計測機能は搭載されていない。高速で移動することを目的としない機体には不要な機能だからだ。落下速度を知る術は、体表の圧力計が伝える風圧の強弱と自身による計算のほかはない。
わたしに必要なのは現在時速ではなく降下完了までの予測時間で、それは転移の前、あの棺の中に身を置いていた間で割り出し終えていた。
約130秒。
それがわたしに残された時間で、しかしそれだけあるならば十分だった。
LEA-R0『リーフィーシー0』軽量機構。自身でエンジンを生産できるほどの知識を持たないわたしのようなライダーが手にできる、残像領域最高出力のミストエンジン。
臍帯のようなエネルギーチューブを通してわたしの背へ直結されたままのそれが、莫大な動力をわたしに供給している。そしてそのほとんどすべては、わたしの体内の『竜殺剣』起動のために注ぎ込まれている。
エンジンの本体はその重量故、既にわたしの横を過ぎ越している。その向こう側、風を切り突き進む直下に広がるのは雪色の大地。その中心にいるはずだった。そしてこの時間へと遡航してきたのなら、まだ存在するはずだった。
わたしの、真に殺すべきものは。
《――寝覚めのアーリー・ティー? いいや、アペリティフと言うべきか》
思考に割り込んだのは発声とも呼べぬ奇妙な伝達だった。空気を振るわせるではなく直接その意志を送り込んでくる、物理法則によらないそれは魔術あるいは霊障にこそ近かった。
その原理は問題ではなかった。気に留めるべきは、わたしはもうその存在に気づかれているということだった。
間に挟んだ数kmの距離は今なお縮まりつつあるとはいえ、エンジンという遙かに大きな付属物を伴うとはいえ。奴は人間大、今や存在しない四肢分を除外すればそれよりも小さなサイズの物体に気づいている。
否。おそらくは、奴もまた同様の異常さを感じ取っているはずなのだ。彼はまだその姿を見せてはいない。この時点ではまだ、何の痕跡さえ見せてはいないはずなのだから。
その存在を不可侵域に置き、尖兵のみを送り込み、この世界に住まう人類を徐々に異常に気付かせ。その作業工程は、奴の言葉で言うならば。
《下拵えの最中にとは、とんだキッチン・ドランカーと誹られるわ》
ヒトを滅ぼしその文明を喰らうことは、これにとって補給行為、生長行為に他ならない。農耕民族が種を蒔き、出芽した植物を丹念に生育し、その成果を食物とすることと何の差異もない。
奴から見れば、わたしは食物がその身から生み出した毒のようなものだ。そしてそれすら、酩酊を呼び起こす程度の弱毒として処理してしまうつもりでいる。そうしてその昂揚した気分をもって、揚々とこの世界の文明というものをその腑に収めてしまうつもりでいる。
それも可能だろう。わたしが隕石に準ずるようなただの飛来物であったのなら。わたしはそれを理解していて、おそらくは奴もそれを理解している。わたしが、奴を殺し得るような何かであることを知っている。
くぐもった嗤いを伴って、奴がその姿を現世へ現す。ステルス機が迷彩を解くように、巨体が純白の大地の上へ一瞬にして影を落とす。
皮膜を備える翼のかたちをした両腕。力強く身をよじる極太の尾。双角の頭部に備えられた爬虫の瞳は感情無くこちらへ向けられ、一面に紫紺の竜鱗で覆われた体表には不可思議な燐光が紅に金に光り消える。
未確認機『レッドドラゴン』、わたしが残像領域で幾度も相対し墜としてきたもの。『リグ・ドゥルガー』、残像領域で最後に目にした、わたしの討つことのできなかった機体。シルエットはそれらにずっと似通っていて、しかしその存在の気配ははっきりと異なっていた。
他の何でもない。わたしの殺すべき竜だと、本能が。わたしに備え付けられた判断機能のすべてがそう告げていた。
[『竜殺剣』起動シークエンス 99%]
[『竜殺剣』起動準備完了 対象認識]
わたしに検知できたのは、そこまでだった。
打ち下ろされた翼の速度を、わたしは認識できなかった。
右方からの重量物が激突する衝撃。響くアラート。不随意にぐるりと身体が仰向く。抜けるような空の蒼が見える。わたしが注視しなければならないのは奴の動向で、しかしわたしの身体は意図せぬ方向へと飛んでいく。
再びの嗤い声。先よりはずっと明瞭な音。そこに伴った嘲りの色までもはっきりと理解できるような。
[動力接続チューブ破断]
[右アイカメラ大破]
[右集音機大破]
[『竜殺剣』起動待機継続]
わたしを導くのは変わらず物理法則だけだ。放物線を描きながら元あった時点から飛び、その最中には慣性のままに回転して、視界に映るものもまためまぐるしく入れ替わる。三方を占める蒼、ある地点を境として一方を占めるのもまた蒼へと入れ替わる。少しの後に姿勢は安定し始め、わたしは状況把握に努め始める。
視界に収めているのは下方、そこに広がる空よりもずっと濃度を増した蒼。霧に閉ざされた世界で目にしたことのなかったもう一つの蒼。海面は刻々と迫っていた。
エンジンの落とす影はもうそこになく、竜もまたそこにはいなかった。奴はわたしをこのまま海中へと沈める気であるらしかった。姿勢制御手段もない機械を処理するための最適解を、一瞬の速さで実行せしめていた。
《その力、覚えのある味だ。すべてを腹に収められないのは残念だが、水底でいましばらく見ているといい。
この文明がいまいちど、塵一つ残さず収奪し尽くされる様を》
隔てた距離は遙かなものだろう。それでも何ら問題なく、奴の意志はわたしに届いていた。勝ち誇るその声が聞こえていた。
一般人類であれば、劣勢において取ることのできた唯一の策が潰えたことに絶望している頃合いだろう。そしてかの竜はその様を幾度も見届け、それをも極上の贄としてきたのだろう。
奴の意志は声という形でわたしに届いている。だがわたしの意志は奴に届いていない。わたしがいかなることを考えているのか、おそらく奴が読むことはできていない。これほどまでに勝ち誇っているのであれば。
[魔力濃度計測装置起動 - 計測開始]
[濃度 - 十全 適合度 - 100%]
[魔術行使回路起動]
わたしは未だ諦観を知らない。殺すべきものを前にして殺害のための努力の手を緩める理由に辿り着かない。
そもそもの設計思想として、わたしはそのようにできている。いかなる状況下におかれようとも、わたしはわたしに搭載された機能でもって戦い続けることを諦めない。
搭載された最大の兵装を振るうことが叶わなければ魔術を。様々な世界で異なる呼称を持つ力を武器として戦ってきた。一度目標と定めたものを見つけられなければ、数多の義体を乗り換え多数の世界を渡りそれに類するものを探してきた。最大の目標たる竜を殺すことが叶わなければ、他のあらゆるものを殺してきた。
その心性はそもそも何のために搭載されているか。
わたしが、魔術。サイキック。霊障現象。そう様々に呼称される力を振るうためにつくられた機械だからだ。
力を振るうための意志に、何かが呼応して初めて具現する力を主力とするための兵器だからだ。
どのような状況に陥ろうとも、変わることなく世界へ呼びかける意志を失わないための存在だからだ。
断続的なノイズが聴覚機構を刺激する。それが真にあるものなのか、機能を失った右耳が伝えてくる不正な電気信号なのかはわからない。けれどそれは聞き慣れた音だった。残像領域での40週ずっと聞いていた。わたしの、戦場の音。
戦いに身を置きたいというわたしの意志に応え続けた電磁波の、ウォーハイドラの立てる音。
[障壁魔術を展開]
[余剰エネルギー残量5%]
[『竜殺剣』起動を150秒後に設定]
音もなく出現した不可視の壁がわたしをしたたかに打ち据える。直下に出現したものが勢いを殺し、そのまま身体を彼方へと放り上げ、わたしは再び放物線を描いて上昇していく。次々に届く体表センサの脱落アラート。破損したボディがぼろぼろとこぼれ落ちていっている。
電子頭脳の奥底からこみ上げてくるのは、いよいよ迫る行動不能への、完全破壊への避けがたい不快感。その感覚が存在することそれ自体が今や不快そのものだった。それは所詮わたしの原初の使命と比べれば後付けで、わたしの製造目的と比すれば矛盾するものでしかないというのに。
まだ動くことができる。その事実を積み上げるための、この不快感を低減するためのさらなる障壁展開。
上昇の頂点から、わたしはゆっくりと滑り降りていく。わたしの操った車輪型ハイドラが、ちょうどこの逆を辿って敵機の上空を取ったのにも似て。
摩擦熱で溶けていくわたしの体表の氷は、今や影も形もないミストエンジンがもたらした霧が高空の寒気で凍り付いたものだ。微小な水に戻ったそれは摩擦抵抗を減らし、滑降速度をさらに上げていく。
向かう先には雪原。白の中の一点、濃色。遠方からは黒点としか窺えないその姿が、急速に解像度を上げていく。全体のシルエット。両腕と首、尾。腕に付随する皮膜。表皮は黒から紫紺へと見え、纏う燐光がさらに明瞭にその色を照らし出す。
《足掻くものじゃあない、美しくない》
やはり距離と速度をいくら伴おうとも、奴はわたしの存在に気付いている。わたしが奴を見紛わないように。
届く声と同時、視認した姿は陽炎じみて揺らぐ。煙のように、あるいは霧のように、巨体の質量を無視して風に吹き消えるものへと変わる。
そこには一瞬にして虚空ばかりが広がった。このまま突撃したとして、わたしを押しとどめるものは何もない。氷原の上空を行き過ぎて勢いのままそのどこかへ突き刺さり、降る雪に埋もれて朽ちるか。あるいは着地点や角度によっては、いかにしても海に沈む運命を免れ得ないか。
奴は干渉不可領域へと身を隠して、わたしの行く末を悠々と見守るつもりのようだった。次元潜航。領域瞬間霊送箱。そんな様々で旅立ったライダーが異位相空間から戦場を眺め機を窺っていたのにも似て、しかしそれよりも遙かに長くを見越して。
[『竜殺剣』起動]
[エネルギー放出を開始]
故にこのわたしの様相も、奴は笑みすら浮かべて眺められるだろう。
身の内から溢れ出すエネルギー光が、ボディのあらゆる箇所を損傷していく。直接的接触箇所はその熱量故に溶解し、体表もまた内部からの損壊によって支えを失い削げ落ちていく。外部情報を得るためのなにもかもも例外なくわたしから脱落し、五感相当領域は閉ざされる。どこへ向かっているのか、何へ向かっているのか。何の情報もない闇の中へと意識は閉じ込められ、しかし身体はそれに反して慣性のまま進み続けている。
今のわたしの姿を外部から眺めたのならば、それは猛進する一本の光剣と映るだろう。
今や剥き出しとなった、わたしがわたしであるための核。それは自意識の核たる演算領域にして、滅竜兵器の核たる領域両断武装。
《――な》
それは不可侵領域という絶対の潜伏先を有する竜を殺すためだけの科学力の結晶。
位相を強制改竄し干渉不能域を無効化する特化型兵装。
そして存在そのものが一つの『領域』たる竜を滅ぼすための滅界兵器。
《なん――なんなのだ、貴様は!?》
聴覚機構のすべてを失おうとも届き続ける悲鳴に応える口をわたしはもはや持たず、意思伝達手段があったと仮定してもここで会話をする意味もまた存在しなかった。
会話をしたところで何の意義もない。会話とはわたしにとり利益を得るための一手段でしかなく、この相手との会話によって得られる利益など存在するはずもない。
わたしが行うべきことは奴が何をしようとも同じだ。
一刻も早い、死を。
《おのれ……おのれおのれおのれおのれ!! 前文明の喰い残しが……!!》
わたしの受ける刺激はもはや自らの内部から発せられるアラートと、聞こえ続ける竜の声の他はない。
悲鳴は今や地の底から響くかのような重圧を伴う。物理的あるいは魔術的抵抗を伴うかどうかは、今のわたしには判別する術はない。
そうであったとしてやはりわたしの行いは変わらず、そしてそれは今更停止できるようなものでもない。わたしたちは互いの死を望んでいて、これはどちらかが死ぬまで終わらない。
[領域内到達]
[全エネルギー解放開始]
悲鳴はアラートを境に咆吼へと変ずる。もはや人語として何かを伝達する機能さえ損なわれかけている。
決着は近かった。けれどそれがいつ起きうるのかも、この間にどれほどの時間が経過しているのかも、もはやわたしにはわからない。
エネルギー残量アラートは淡々と迫り来るその時の存在を知らせてくる。いかにしても覆しようのない限界が追い縋ってきていることを。
《あgAぁあァAaayaAアあuAa》
[エネルギー放出40%]
《dsjmao.a;kjb》
[エネルギー放出80%]
《lllsjmwd》
[エネルギー放出99%]
[これ以上の放出は人格エミュレータの維持に深刻な障害が予測されます]
[放出を続行しますか?]
[放出の続行を選択]
[エネルギー放出100%]
[人格エミュレータシステムダウン]
《 》
[活動目標『滅竜』完遂]
[遵守命令『活動目標の維持』に障害発生]
[新たな活動目標の設定を提案]
[活動目標を『クロムノート・ヴェルサキオンの討滅』に設定]
[エネルギー残量0コンマ以下]
[人類文明による再発見までの休眠を提案]
[提案を承認]
[休眠状態への移行を開始]