week36
霧と電磁波の他に天候を持たなかった残像領域はパニックに陥り、市民の間では世界の終焉すら囁かれ始める。
その中で、ハイドラ大隊は今や状況打開の希望となっていた。
モニタの端に灯る通信着信アラート。発信元を確認。ウォーラー整備。
今日は確かにハイドラ整備のために訪問予定があったが、その都度通信を送るような人物ではない。
音声通話を開始する。
電話口から聞こえる声はどことなく気力に欠け、その後ろからは遠くくぐもったエンジン音。時折混じる、悲鳴じみたブレーキ音。
『もしもし、こちらウォーラー整備です。申し訳ございません、本日中のお伺いは難しいかと思います』
「了解致しました。事由をお教えいただいても?」
『車が出せなくなってしまいまして。代わりの車も、もう見つける当てがないんです』
「……と、いうと?」
理由を思い当たらずに問い返す。
僅かな沈黙の後の返答は、やや呆れの色を帯びていた。
『今、ニュースでも騒ぎになっているんですが……ご存じありませんか?
一ヶ月前からずいぶん冷え込んでいたでしょう。それでとうとう、雪が降り始めまして。
僕も雪なんて本でしか見たことがなかったんですが……それで、皆恐ろしくなってしまって。
何とか車でどこかへ逃げようとして……でも誰も雪の中でなんて運転したことはありませんから、そこらじゅう事故車だらけで。
道路も塞がってますし、動く車がまだ市内に残っているのかもよくわかりません。
この電話回線が繋がってるのも、僕は随分凄いことだと思っていますよ』
残像領域の気候についてわたしはさほど詳しくなく、またさほどの関心があるわけでもなかった。
ハイドラあるいはわたしの稼働に問題を生ずるような低温あるいは高温環境は四季の概念が薄いここには存在せず、むしろそれはずっと好都合なことだった。
おそらくは残像領域に生まれ育った住人たちも、そう思っていたのだろう。
戦火やそれに伴う経済的用件のほかに、生存を脅かすものはごく少なかったのだろう。
状況はわたしの考えるよりもずっと悪かった。少なくとも市民生活に際しては。
それさえ聞ければ十分だった。話を遮り、確認を取る。
「あなたは?」
『はい?』
「あなたの具合はいかがですか?」
『僕ですか? 僕は……軽車輪を見てるんだから車くらい直せってせっつかれてますけど、身体の方はまあ大丈夫です』
「かしこまりました。代替交通手段を探してください」
クライアントとしての要請、あるいは金銭の支払い元としての要求を口にすれば、またも数秒の沈黙。
背後の破砕音がいやにはっきりと聞こえる。
『……あの、すみません。今までの話で状況は十分説明したつもりでいたんですが』
「無論、困難な状況であることは理解しています。
しかし同様に、ハイドラ整備の必要性も非常に高いのはご理解いただけるかと」
『それはそうですが……』
「霧笛の塔、企業連盟、霧の巨人。
現在、そのすべてに関わり得る可能性を持つのが大隊所属ハイドラとそのライダーです。
その整備およびアセンブルは不可欠かつ最優先で行われるべき事項です。
ハイドラ大隊所属ライダーの権限をもって要求します」
企業連盟崩壊のニュースは無論、市民の耳にも届いているはずだ。あれほどの組織の崩壊を隠し切れはしない。
その状況でハイドラ大隊という名がどれほどの効力を持つものか、推定は決して余裕のあるものではなかったものの。
『…………わかりました、期待はしないでください』
根負けしたと言わんばかりの言い方は、彼の常ではあるものの。
掲げた錦の御旗が多少なりとも効力を発揮したことを示していた。
「期待しています」
『やっぱり僕の話聞いてないでしょうあなた……』
「次週ミッションへは軽車輪型の脚部での出撃を予定しています。
車輪部の防滑に役立ちそうなもの、あるいは案があればお持ちいただきたく」
『この天気の中で車輪脚部を……? あの、やはり僕のお話を』
「その他の要望は今のところありません。追加の報酬額を用意してお待ちしています」
この話好きの整備士に付き合っていては通信がいつ終わるのか知れたものではなかった。
通信を一方的に切って、ハイドラ操縦シミュレートプログラムのケース集にアクセスを開始する。
積雪環境下での、あるいはコロッセオの特殊環境としての低摩擦環境下での操縦シミュレーション。
この残像領域のこれまでを考えると存在する確率は高くはないであろうものを探して。
week37
大隊の元にはバルーナス率いる企業連盟残党、ルオシュ率いる反体制レジスタンスが友軍戦力として集結し、体制は整った。
残像領域の現地住民と呼べる存在であるレイクと言葉を交わしながら、シニカは戦いへの決意を固める。
再び来ると言った通りに、わたしは時折レイク──『キッシンジャー』の搭載AIへ接続しては戦闘時の映像記録を渡していた。
非接続時の彼女に時間経過に対する感覚があるとは思えなかったが、言葉を違えたと思われるのも良くはない。彼女が『キッシンジャー』に対して持つ権限や機能は未だもって不明瞭で、何かの拍子に行使される可能性はある。
最低限の時間を割いて最大限の効果を上げる。有り体に言えば機嫌を取ることには、記録を与えることが最も適していた。
「このノイズは何でしょう?」
「映像記録に不備がありましたか?」
そうして与えていたのは、つい先週の出撃記録だ。
彼女に与えるものはすべてわたしを通してデータの送付を行っている。何かあるならばわたしの気づかないはずはない。
マスターデータのスキャン。解像度確認。画面規格のチェック。すべて問題はない。
「映像に破損部は見受けられませんが」
「では、こちらに不具合があるのでしょうか?
画像全体に、白くて細かなノイズがかかっているのですが……」
「……ああ、あなたには雪に関する知識が与えられていないのですね」
先日に整備士から聞いた話を思えば無理もない。
人間ですら、それも外界から渡り来た者も含まれるハイドラライダーと関わることの多い整備士ですら雪や寒冷については伝聞でしか知らなかったのだ。残像領域外で活動することを想定していないであろう人工知能にその情報を与えておくことは容量を圧迫する行為でしかない。
「雪。
初めて触れる単語ですね。どのようなものですか?」
「地表近辺が低温の際、雲に含まれる余剰水分が細かな固体として降下する現象のことです。
あなたは天候についてどれほどの知識を有しているのですか?」
「私の知るものは二つだけです。
霧濃度および電磁波強度。戦場で必要となるのはそれのみですから」
「大変効率的な設計かと。
わたしも、大隊所属ライダーとなって以後は降雨下での戦闘を経験したことはありません。
降雪下における戦闘も、この記録の際が初めてです」
既に整備士には降雪時への対策を頼んできてあった。
タイヤチェーンはハイドラの文明レベルに比してあまりにも原始的な対応であるように思えたが、原始的であるからこそ材料を確保することができた。
「何故このような事態が?」
「原理的説明は先ほど。現状の理由は『霜の巨人』です」
「あなたはそれを討ちに?」
「はい。掃討ミッションはもう既に受領しています。大隊内では『春を呼ぶ』と意気込む者もいるようです」
「……なぜそのような単語が?巨人は上方からの攻撃に弱いのですか?
その意を量るまでに数秒を要する。
跳躍に関する語彙を使った覚えはなかった。話文をもう一度精査して、ようやくその要因を見つける。
「……『spring』はバネのことではありません。
年間を通じ一定の気候変動が起こる地域において、低温期から高温期への移行期をそう呼称します」
「気候に関するものは、未知の言葉が多いですね……」
残像領域に天候変化はごく少なく、半年以上を大隊のライダーとして過ごしたわたしですら季節と呼べるほどの気候変化を確認したことはない。おそらく天候の概念と同じように、季節というものもまたこの世界の霧に覆い隠されているのだろう。
霧と電磁波、戦闘の余波で静かに変わりゆく地形や地図。進歩し続ける各機のパーツ。
それ以外に変動要素はほとんどない。他世界での戦争において障害となりうる気象気候の類はすべて霧にとって変わられ消失している。
この世界は戦火という停滞のために図ったように能率的にできていて、それがわたしには好ましかった。
だからこそかの巨人を、わたしは殺さねばならなかった。
残像領域の未来のためでもこの世界に生きる知的生物のためでも狩られゆく運命にある文明を救うためでもなく、ただわたしが好ましい世界において活動し続けるために。
なんとしてでも。
week38
寒波とともに霧が去った残像領域には千年ぶりの青空が訪れ、霧によって封じられていた最後の禁忌・『生命と全ての禁忌』が目覚めゆく。
この世のあらゆる存在を更新し新人類へ変えるというそれを討ち、現世を守れる戦力はハイドラ大隊のみ。
しかしその一員であるシニカにとって、『霜の巨人』によって失われたものはあまりにも大きかった。
『霧濃度 - 0%
電磁波強度 - 0%
ミストエンジン - 正常稼働
貯水噴霧システム - 噴霧不能』
何度再計測および再表示を繰り返しても変わらなかった。
霧と電磁波。残像領域に存在していたたった二つの天候は姿を消そうとしていた。
霜の巨人がその膝を折り、寒気とともにすべてを連れ去っていった。
それはそのまま、この世界とそこで育まれてきた技術の特異性が徐々に消えゆくことを意味していた。
そしてわたしが戦うにあたって常に頼ってきたものが、もはや使えなどしなくなることを。
与えられた猶予は一週間。これまでのスパンとさほど変わりなく、大隊は『生命と全ての禁忌』を迎え撃つ。
むしろ霧の巨人討伐後の混乱を考えれば、この一週間が確保されたことは奇跡的ですらあった。
だがそれは期間が足りるかということにはまったく関与しない。これまででもっとも短い一週間であった、と言っても過言ではなかった。
霧と霊障に頼らない攻撃手段などわたしの手にはあまりにも乏しく、その代替手段を見つけるには一週間はあまりにも短すぎた。
小隊配属表に射手の名は少なく、霧の消えたこの状況で接近戦を挑む僚機がこれまでほどの戦果を挙げられるかも未知数。
かといってわたしがそれに代わることはあまりにも無謀だった。
これまでのわたしの火器の使用実績をみても、それはあくまで補助的な用法でありさほどの戦果に繋がってはいない。わたしが築き上げてきた戦果は、おおよそすべてが霧と電磁波の力によるものだった。
それを欠いたまま『生命と全ての禁忌』に挑むのは、まるで電子頭脳ひとつになって、動作に必要な何をも与えられないままにどこかへ差し出されるように頼りなかった。
その比喩を思い浮かべて、はたと気づいたのだった。
可能性は低くとも代わりになりうる、ハイドラの火器の扱いにある程度習熟したただひとりのことを。
「ハイドラライダーとしての火器、特に射撃火器の使用経験。あるいはその腕についてお聞きしたく」
『専門ではありませんが、全くの素人でもありません。
知識のみであれば、私の製造時に存在していた全種別のハイドラパーツのものを与えられています。
少なくとも、私は火器なしで戦場に立ったことはありません』
彼女に積極的に頼りたいかといえばまったくそうではない。
今や箱ひとつと化した彼女が、再び外の世界に触れることで何を思うのかが予測できないほどわたしは愚鈍ではない。
それでも。
今や彼女の知る天候は何一つ存在せず、彼女の知るバディのみの戦場は遠い過去となり、HCSのシステムそのものも彼女が知るよりも遙かに広範なアップデートが施されていたとしても。
そのすべてをカバーできたのならば、彼女はわたしよりも良い戦果を挙げるはずだ。
この霧と電磁波の失われた残像領域において。
「単刀直入に申し上げます。その経験をお借りしたく。
次週、わたしを補助するAIとして『キッシンジャー』へ搭乗してください。
火器管制以外の部分、HCS拡張や他機との連携機構についてはわたしが制御を担当します」
『……本気でおっしゃっているのですか?
私は単騎あるいはバディ戦のために造られた旧型と、
現代戦には不適とお伝えしたはずですが』
「そうした部分についてはわたしがカバーリングを行います。
小隊所属機および敵機判別、同期索敵データの反映、各種の追加機能処理。
あなたはそれに従い敵機を撃墜することのみを考えていただければ結構です」
『ですが――』
「そして。
あなたは言いましたね? わたしたちは『キッシンジャー』を運用するための機能、操縦者という一パーツに過ぎないと。
故にあなたよりも集団戦闘に適したわたしに機体を明け渡しているのだと。
わたしはその価値観に従い、機体機能の一部をあなたに明け渡すのです。その一点においてより優れた管制を行えるあなたへ」
カードは切りきっていた。
以前のわたしなら決して切ることのないワイルドカードこそが、その言葉だった。
それはハイドラライダーとしてのわたしを駆逐しうる。わたしよりもレイクが一点においてでも優れているという既成事実を作りうる。あらゆる箇所でわたしに適したこの霧の残像領域での席を失いうる。
けれどそれはもう終わりが見えてしまった。
残像領域から霧と霊障は失われ、ミストエンジンという動力が今後稼働し続けるのかも危うい。
わたしの好んだ戦場はもはや消えようとしていた。霧濃度、電磁波、そんな概念と同じように。
『……そう言われれば、断るなどとは言えませんが。
本当に良いのですか?』
「構わないから頼んでいます、心配はわたしでなく戦場へ向けてください。
予測される敵部隊データ、および同小隊配属機についてのデータを渡しておきます。
あなたを機体へ組み込む手はずはこちらで整えておきます。機体内でまたお会いしましょう」
決断までにあまりに時間がかかりすぎ、もはや出撃までの猶予はそれほど残されてはいなかった。
すべてを急ぐ必要があった。
レイクとの接続を切る。整備屋への連絡を取るために、操縦棺へと戻って通信機能を立ち上げる――
『――ノエル、ノエル=EXTERIOR!
なんてこと……! コロシアムではなくとも……
あなたと、戦場に立てる日が来るなんて……!』
week39
しかしそれは同時に、同じ機体を奪い合うシニカの優位が揺らぐことでもあった。
攻撃戦果、10%。計上上限。
この半年以上を大隊のライダーとして戦ってきて、ようやく手にした最後の上限戦果だった。
そしてそれは、同時にどう足掻けども埋めきれない差を露呈することでもあった。
足りぬ部分はすべてわたしが補ったとはいえ、その助けがなければ彼女は決してこの変化した戦場に順応することができなかったとはいえ。
わたしの過ごしてきたこの37週間を、彼女は一瞬にして上回ってみせた。
示された結果は間違いようもなく、その証左だったからだ。
「前回の出撃について、戦果査定の発表がありました。……素晴らしい戦果でした。攻撃・支援・防衛とも10%以上。
三戦果の平均としては、わたしがこの大隊で挙げたうち5本の指に入ると言っていいでしょう」
『少しでも、あなたの助けになれましたか?』
「あなたもご自分で理解しているのでは?」
そうしてそれを、わたしは彼女に対し秘せずにいた。
データのアクセス権に制限をかけているとはいえ、彼女が『キッシンジャー』という機体そのものに対しどこまでの権限を持っているかに楽観的な見方はできなかった。
そして何より、どれほどの働きができたかなど秘したところで彼女自身が体感としてもっともよく理解しているだろう。
わたしがわざわざ秘する意味はない。
「次回の出撃において、火器類の使用は最小限に留めるつもりです。
あなたを起用するほどに火器に重点を置いたアセンブルは行いません。再度、格納庫でお待ちいただきたく」
『……私をもう一度連れて行ってはいただけないのですか?』
「この機体が軽量機なのはあなたもご存じのはずですが。デッドウェイトが存在することは機動力低下等の不利益に繋がります。
ご理解ください」
彼女から返ったのは沈黙ばかりだった。
ノイズばかりの画面から応答はなく、わたしはそれを不承不承ながら納得したものと見なしたのだ。
それが間違いだと気づいたのは、彼女を収めた箱を取り外しに来た整備屋の上げる悲鳴を聞いてからだ。
何事かと操縦棺から身を乗り出したわたしの視線の先で、彼の手にした工具はどれもこれも無残にひしゃげてその用を成さなくなっていた。困惑しながら呆然と工具だったものを見る彼に、心当たりがあるから待つように、とだけ告げて操縦棺の蓋を閉める。
それはわたしのよく知る力だった。そして彼女の成せないはずもない現象だった。残像領域はそれを霊障現象と呼び、わたしを創り上げた文明はそれを魔法と呼んだ。
有意志存在の指向意志によってもたらされる力。揺るがざる固い意志さえあるのならば、あらゆる存在が行使し得る力だった。
先週の戦場にて多大な攻撃戦果を挙げた理由は火器ばかりではなかった。時折その弾幕に混じって放たれた霊障が、局地的に高まった電磁波に乗って敵機を破壊したのだ。
もっとも激しいものはほとんど無傷の機体を一瞬で鉄屑に変えるほどの威力を誇っていて、バイオスフェア要塞攻略戦――先週と同じように異常なまでの電磁波が観測された戦場以来、それほどの威力を持つ霊障をこの機体が放つことなどなかった。
それすらもおそらくは、わたしではなく彼女の放ったものだったのだ。
いつぶりに戦場に立ったかも知れぬ、いつの地点から外界と隔絶されていたかも知れぬ、どれほどの敵愾心をその内に滾らせていたかも知れぬ彼女のその心が作り上げた非実体的殺傷能力。
そうだとするならば、自らに危害を加えようとする工具を使用不能に追い込むことなど造作もないことだろう。工具のみで済んでいるのだから、それほど事態は悪くはない。
もっともそれは、彼女が無事に引き下がってくれるかとはさほど関係のない事柄だろう。
「ライク・レイク・キッシンジャー。応答を願います」
『……はい』
「あなたは取り外し手続きに抵抗しましたね?」
『戦場へ往きたいのです。この機体とともに』
「あなたを置いていく理由は以前申し上げました。反論がおありならばお聞かせ願いたく」
『私は攻撃において、技量を示しました。それに、合意したはずです。
『私たちはライダーという名のパーツに過ぎず、より優れたものをハイドラに載せる』と』
「それはその通りです。しかしあなたの技量は、次回の戦場に向けたアセンブルでは必要とされません。
待機を願います。そしてわたしは同じようにかつて申し上げました。わたしがこのハイドラを下りる時、あなたにこの機体に関する全権を返還すると。
大隊所属契約の期間も満了まで3週間を切っています。あなたに機体が返る日は決して遠くはありません」
『いえ。今、往きたいのです』
「なぜ?」
『私は死にたくありません』
死にたくない。
戦うために製造された人工知能の口にするには似つかわしくないその言葉は、しかしわたしもまた幾度も口にしてきたものだった。
しかしその間には決定的な差異がある。彼女の求める生はわたしの求める生ではない。彼女にはわたしの求める生を欲する理由がない。
彼女はわたしのように、他者から永らえろとの命令を受けてなどいないのだから。
『ただの箱になどなりたくありません。私は戦うため造られた人工知能です。
例え、型落ち品に過ぎないとしても』
彼女が求めるのは機械としての生で、使用目的を明確に定められた被造物としての幸福だ。
設定された目的に沿いその役目を果たすことを至上の幸福と考える、代替労働者として理想的な精神構造によるものだ。
人格的基礎として位置づけられたそれが途方もなく動かしがたいことは、わたしとて自身のこととしてよく知っている。
『それに……私の機体は『キッシンジャー』一つ。
あなたは他の機体を使えるでしょう。ですが、私はそうではない』
「あなたが使用していた頃の機体の原形は、もうこの機体にはないとしても?」
『はい。
私が使えるのであれば、それはどうなっていようとも『キッシンジャー』です
そしてそれを成すためには意志に沿って操ることのできる肉体が必要で、彼女にとりそれはこの機体ただ一つだ。
機体と相互に1:1の関係で製造されたAIとして、パーツを果てなく交換され続けていくウォーハイドラであるにもかかわらず。彼女にとっては『キッシンジャー』こそが唯一の己の肉体で、他のハイドラなど代替にはなり得ないらしい。
それが形成されたある種の愛着故か、彼女という存在が機体接続および操縦を行う際の特異性によるものかは問われずとも、その代替不可能性だけは確かだ。
「そしてこの先の。
『生命と全ての禁忌』および『リグ・ドゥルガー』との戦闘で、修復不能なまでにあなたと機体が破壊される危険性があるとしても?」
『もちろん。
最期は人の代わりとして、戦場で迎えたいと願います』
そして彼女は自らの破壊という形での死を恐れない。それはおそらく彼女の設計通りの、仕様に従い意図された動作だ。
人間のライダーの代替として戦い、一機でも多くの敵を屠ること。そしてその果てに、人間のライダーの代替となって破壊されゆくこと。
それこそが彼女の生の目的で、至上の幸福だ。
自律意志の維持。機体の十全な維持。活動目標の維持。それはわたしに刻まれた生の三箇条で、わたしが何にも優先して保つべきものだ。
それをたった今、彼女に当てはめたなら。彼女もまた同じ意志の元にあったと仮定するなら。彼女がわたしのように他者よりの命令によらず、それを自身の指標として持っていたとしたなら。
すべての辻褄は合ってしまう。
すなわちわたしは何があったとしても彼女へ機体機能を、一部なりとも返還すべきではなかった。そうした結論に達する。
その三箇条において彼女が欠いていたのは意志を実現し目標を達成するだけの機体のみで、その電子頭脳の内ではそれを求める欲求、生を求める意欲が溢れかえっていた。
生存意欲というものを今や他者よりの命令、義務としてしか持たないわたしには予測不能なほど強く。
「わかりました。もはやあなたを止めることそのものが危険と判断します。
その敵愾心は是非、敵機へ向けていただきたく」
『かしこまりました。ご厚意に感謝します』
一つの過失があったのならば次善の策を打つ。わたしの義務は今や殺害でなく生存であるとはいえ、ただ一点のミスで諦めるほどに戦場への執着が薄いわけではなかった。
彼女は未だわたしなしでは戦場に出ることはできず、わたしを捨てることはできない。
わたしがライダーであろうとする限り、もはや彼女を捨てることはできそうもないように。
week40
大隊に下された最後のミッションは、千年を生きる女メルサリアがその熱意でもって蘇らせた古の超兵器リグ・ドゥルガーとの『最終性能試験』。
それこそがハイドラとドゥルガーの力を相互無限に高め、禁忌を完全に封じる決定打になるという。
ハイドラの行き着いた戦いの果てとも言える地平で、しかしシニカとレイクに止まるという選択肢はない。
その存在が戦闘兵器である限り。
『私たちは今後どうなるのでしょう? 契約の更新はあるのでしょうか』
「大隊の傭兵契約期間は40週。それも今週で終わります。
現在の残像領域の情勢を鑑みれば、契約更新申請が受理される可能性は低いでしょう。
当初の契約主である『霧笛の塔』の代理人は未だ派遣されておらず、企業連盟は崩壊し、ハイドラ大隊を制御しうるだけの巨大勢力は現在の領域内には確認できません。
大隊は『リグ・ドゥルガー』との最終性能試験を区切りとし、解散となる公算がもっとも高いでしょう」
映像記録で見るのみでも、メルサリアの操るDR『リグ・ドゥルガー』の力は凄まじいものだった。
彼女自身が甦らせた各種のパーツ、旧来のミストエンジンとは一線を画す出力のハイドロエンジン。これまでの彼女の探求、そしてそれが培った技術の結晶であると言って相違なかった。ついに700を数えるほどとなったウォーハイドラの群れ、領域最強の武力をただ一機で相手取れど決して遅れは取らないだろう、そう確信させるほどの。
ただそれは、わたしから見たならば兵器というものではなかった。評するならばそれは美術品であるとわたしの目には映った。
より効率的に破壊あるいは殺害を可能にするための敵愾心でつくられたものではなく、かつて目にしたものを精巧に映し取り再びこの世へとあらしめるための、ある種の愛着によってつくられたものであると。それがどのハイドラよりも能率的な兵器としての役割を可能とするのはあくまでオリジナル・ドゥルガーがその思想のもとに設計されていたからであると。
映像記録の中で『生命と全ての禁忌』へ力を振るうそれは、兵器と呼ぶよりも愛玩人形と呼ぶ方が相応しいように思えた。
「加えて、霧のなくなった領域では大幅な戦術改革の訪れが予測されます。
格闘兵器や霊障現象の戦術的地位の低下、さらにはミストエンジンという霧を発し、居所を教えているも同然の兵器がどれほど採用されるかに楽感的予測は立てられません」
そしておそらくは、ウォーハイドラという存在も同様の道を辿るのだろう。
ハイドラという存在に、代替不可能なレベルの愛着あるいは技術的依存を持つライダーのみが操る戦術兵器の一種へ成り下がるのだろう。それが今すぐでなくとも。
いくらウォーハイドラが汎用性に優れた兵器であるとはいえ、霧に満ちた領域で最大効率を発揮するためにつくられたその本質を凌駕するほどの変革は成し得ないだろう。
あるいはその欠点が露呈する前に、ハイドラは動力となる霧を失い朽ちるのかもしれない。
『最終性能試験』とはおそらく、リグ・ドゥルガーのみのものではない。
この世界に霧が満ち、そのうちで殺し合うための兵器が生まれ、果てざる技術向上を重ねてきたその進化の終着点を演ずるためのものでもあるのだ。
『……私は……いよいよ用済みになるのですか?』
「あくまで可能性の話です。もしそれが叶ったとして、今すぐに心配する理由はありません」
『どういうことですか?』
「もう、次契約のオファーは受けています。
間違いなく戦場を離れることなく過ごせる、わたしたちの『生きる』ことができるであろうものを」
そしてこの残像領域でわたしの隣にいたのは、それこそ『ハイドラという存在に代替不可能なレベルの技術的依存を持つ』ハイドラライダーだ。およそライダーとして、それもこの40週の間絶え間なく続けてきたと同じ戦い方をするライダーとしてしか生きて行くことはできない男だ。
その行くところにはきっと、どこであろうと戦役がある。ウォーハイドラを必要とする地がある。
「今一度、確認しましょう。
わたしたちは、何ですか?」
『私たちは……戦うための、兵器です』
「わたしたちが、すべきことは何ですか?」
『戦場に立つこと』
「その通りです」
そしてわたしたちは、愛玩物ではなく兵器だ。
人間の殺意を、人倫にもとることなく代行するためにつくられたものたちだ。
すべきことも望むものも生きる道もそのために外側から規定された、そのためだけの被造の心を持たされたものたちだ。
小異はあれ活路を望む場所など決まりきっている。最も殺すべきものが、決してその地に現れることなどないとしても。
「行きましょう。わたしたちの生きるべき、戦火を探しに」