その終わりに目にした奇妙な風景が何なのかを考える間もなく思念の道は閉ざされ、現実が再び意識を捕らえる。
「――アザミネ君、アザミネ君!!」
至近で張り上げられる声に、後頭部の痛みがびりびりと呼応する。薄く開けた目に差し込んでくる光は赤い。あの連環の中で見た最後の景色と同じように。
またどこかの記憶に紛れ込んだか? その割には妙な状況だった。こんなに切羽詰まった調子で呼ばれた覚えなんか一度もない。
判断材料を得るために開こうとする瞼ひとつが、錆びつききったシャッターじみて異様に重かった。粉塵色に霞む世界の向こうに見えるのは血相を変えて叫ぶ教官。
それが脳へ届いたのを合図に、全身という全身に感覚が戻ってくる。固く平たい地に触れた背中、投げ出されたままの四肢、立ち込めるままの料理の香気。
あの店の個室の床に、いつの間にか転がっていた。動けもしないまま。
「……気が付いたか。良かったよ。だが、しばらくはそうしていなさい。
制御識を能動的に使おうとする時、体にかかる負担は思っている以上に大きいからね。
特に第五種はそうだ。使ったろう、君」
その言葉が届くと同時、他のすべてを跳ね飛ばして怖気が割り入ってくる。
もう割れている。何をしたのか。それだけで危機を察するには余りあって、だがどうすればそれを乗り越えられるのか頭が働かない。
闇雲に突いた肘と手首の勢いで体がぐるりと逆を向く。その拍子に頬を何かが伝って、目に映る紅がいくらか薄まる。
目の前の手の甲へ落ちたそれは、見紛うこともない血の色をしていた。
「特に何もしやしないよ。また繋げて確かめてくれたっていいとも。
頭の中で暴れたり叫んだり、君が倒れない程度に頼みたいけどね」
ただ腕で身体を支えて、上体を起こそうとするだけの動作がままならない。なら這ってでも動いてやろうと思ったところで、全身の重量を動かすには到底足りない力しか出ない。
出せるのは短い悪態程度で、それさえ切れた息の中から断続的に出るものでしかなかった。
「第一、何かする気があるなら起こすわけないだろう。
君がそうして五体満足なことが僕に危害を加える理由のない一番の証拠だと思うが、違うかね」
それは一見もっともな話だ。俺が見たのが知られては都合の悪いものだったなら、とうに口封じは終わっているか確実な実行秒読みだろう。
だが逆に、気づけない程度にもう何かをされているという可能性もあった。それこそ俺がやろうとしたのと同じように。
そう思えば答える必要も受け入れる必要もなく、だがここから逃れる試行錯誤は相も変わらず実を結びそうになかった。
その様子は、あいつからは滑稽にのたうち回っているようにしか見えなかったんだろう。呆れの色さえ交じっていた声に、少しばかりの喜色が宿る。
「だが、そうした姿勢自体は実に好ましいものだと思う。君がしようとしたこと自体もね」
「………はあ?」
それはほとんど労苦の果てに出た吐息に近かったが、その最後の疑問符だけは本物だった。
何を言っているんだ。お前から見て褒めるところなんか何もない。
「それは持てる手段や力を使えるだけ使って生きて行こうという意志と、そして能力の体現だよ。
僕は君たちに、そういう人間になってほしかった。同僚たちがどうかまでは分からないがね」
心底満足そうなその言葉へ、馬鹿らしいと吐き捨てるつもりで漏らした息は音にならない。それでようやく、どちらか選ばなければならないと覚悟した。
反論もできずに話を延々と聞かされ続けるか、それともここから逃れることを根本諦めるかを。
「……そんなモンの結果なんざ、アンタなら最初から分かってんじゃねえの、第一種制御識教官さんよ」
そうして選んだのは前者だ。そう決めて暫し息を整えれば、口を開くのは身体を動かすよりもずっと楽だった。
第一種制御識《未来》。文字通りの未来予知の統御を指導できるほどの能力者。それは期待だの理想だのからは程遠い存在のはずだ。その気になれば何もかもが分かるなら、そんなものを抱く余地はない。
「あれはそんなに万能なものじゃないさ。君が見たあの騒ぎの場に、僕の制御識を頼る者が一人でもいたかい?
それが証拠だよ」
だが返ってくるのは随分と手慣れた調子の反論だった。取り付く島もないような。
「足りないと言うなら、あれが最近見せる奇妙なものの話をしようか。
といっても、君はもしかすれば分かってくれるかな」
そのくせ突然にこちらへ水を向けてくる。
妙なもの。それでいて、この先の未来。そう言われて思い浮かぶものなんざ一つしかない。
「壊れたモニタみてえな調子でぶっ壊れる世界とか」
「いいや」
可能な限り冗談のように言い放った一言をどう受け取ったのか、腹這いのままの体勢ではその表情さえ分かりやしない。
返る声には失望も期待もない、当たり前のことを肯定するフラットな音。
「グレムリンだよ。
見たこともない装備を身につけて、スモークの中を飛んでいる。
真剣だが命を懸けている感じのない、力の抜けた不思議な飛び方をする機体ばかりでね」
それを聞けば自然、ああ、と声が漏れた。その次を追って出てくるのは笑いだ。ほとんど失笑と言っていいような。
あの奇妙に浮かれた明るい交戦が、この先の未来だと示す力。そんなものが信用されるはずもない。
それを見る本人でさえ信じがたいものを。
「君も見ていたと思ったがね。やはり信じてはくれなかったか」
「てっきりその類のヤクで幻でも見たのかと」
「至極真っ当な判断だ」
返答とともに奴が席を立ったことを床伝いの振動で知る。
元より位置は差し向かいだったからさほどの距離もない。その足音はだんだん近づいてきて、止まる。
「この力はその程度のものだよ。未来は人間の視界に捉えるには巨大すぎる。
だからこそ僕は、君たちにはその未知の中をあらゆる手段でもって生き延びられるようになって欲しかったし……
今もそうして生きている者がいると信じている」
そうして目の前に、膝を付いて覗き込んでくる顔があった。
見下ろされるその視線に覚える嫌悪感に、ようやく少しは言うことを聞くようになった身体へ鞭を打って上体を起こし無理矢理に目を合わせる。
「君はまだ、僕たちが彼らを殺したと信じているかい」
「当たり前だ」
何故知っているなどと言う必要もなかった。俺が叫んだことまでも聞こえていたなら、当然分かっているだろう。
そしてそれを否定できるはずもない。
「俺から見りゃあ、アンタ達はいまだってそういうモンだよ。
それが『自由の下の選択』ならアンタにゃ否定する理由なんかないんだろ、教官?」
元教官と教え子の立場なんかとっくにかなぐり捨てているのは双方了解済みだ。そんな茶番は俺が起きた時点でもう終わっている。
教官は少しばかり肩をすくめて、だがその口元にある笑みが消えないのが酷く癪に障る。
「その通り。否定はできないね。ただ、一つだけ確認させてもらうことがある。
僕は僕の思うように手を尽くそう」
随分と勿体ぶった調子に、次の言葉は引き延ばされて。
「君が死んだと断じた者の中に。
ひとりでも、君がその目で死体を確認した者はいるかい」
放たれたその言葉が冷水のように頭を、背筋を、末端を凍らせていく。
死体? 確認なんかできるものか。アルテアを去ってから顔を合わせたことさえない連中がほとんどだ。
ほとんどが傭兵として虚空領域中に散った俺たちは、互いの所在さえ口にすることがなかった。それ一つが契約上の機密だからだ。
今いる場所をいつ発ってどこへ行くのかも、自分の意志ひとつで決められるってわけじゃない。仕事のある場所へ、船から船へ。
そんな海に浮く廃コンテナみたいな生活の中で、ただグレイヴネットの通信だけを互いの生存確認にしていた。そこだけが自由だった。
それにどんな要因であろうと、この世界の9割がたを埋める海へ落ちたのならその姿は二度と見られなくて当たり前だ。
無言の俺を見て、奴はそれを否定と取ったんだろう。
「重要対象の生死確認は確実な死体の目視にて行うこと。
白兵戦闘の基本だが、それ以外でも何かと役に立つ話だよ。何せ、この世界には別人になる手段もないわけではない」
「……俺が死んだと思った連中が、そうして生きてるかもしれないって?」
「そうだ。事実としてはあくまで、彼らは失踪したに過ぎないからね」
名前。容姿。グレイヴネットアドレス。
そのひとつ変えるのは容易くたって、すべてを変えることは簡単じゃない。真紅や翡翠なら市民番号だのIDだの、もっと根本的で変えがたい紐づきもある。
だが不可能ではないとは知っていた。そうして成り代わった特定個人に出会ったことはなくとも、それが疑われると耳にしたことくらいは。
けれど自信に満ちた、「あらゆる手段をもって生きている人間がいると信じている」なんて台詞を体現するような口ぶりで言われるそれは、どうにも。
「随分とアンタ達に都合の良い見方だ」
そうとしか受け取れなかった。
せめてこれが、アルテアと何の関わりもない相手から提案されたのならまた違ったろう。だがそんなことはあり得ない。
関わりのない誰とこんなことを話すものか。
「希望的観測と呼んでくれ。
それに僕たちは、少なくとも自分の守ったものをむざむざ殺すような集団ではないよ」
見た記憶は嘘を教えない。だから少なくともあれは真実だ。
身内以外の誰もが見ていないはずのあの場で、火花を散らす勢いでもってあんな問答をする程度に連中が真剣であったことも、あの女が言ったのは俺たちを騙すための手の込んだ虚言だったことも。
それを思えば、今言われたことだって正しいんだろう。何せスモークの中をグレムリンが飛ぶ訳の分からない未来像よりは、ずっと信憑性のある過去だ。
受け入れがたい理由はひとつ。
それを認めてしまえば、馬鹿は俺たちだということになるからだ。
踊らされて信じるべきではないものを信じて、思うまま操られ勝手に危険に身を投じて死んだ、ただの馬鹿。
「どうだか」
だが他はともかく、俺自身については馬鹿だと言わざるを得ないだろう。
客観的証拠も存在する受け入れるべき事実を、そして受け入れた方がずっと救いのある提案を、こうして突っぱねずにはいられない程度の馬鹿だ。他人のように俺を眺める理性はそう言っているし、何より反論さえもまともにできないことがその証拠。
拒んでいるのはもう餓鬼のような意地故でしかない。それは信じるべきものを信じない馬鹿の上塗りだと、もう自分でさえ気が付いている。
「君がそう思うなら、今のところ僕に打てる手はない。言った通り、僕の質問は一つだけだからね」
「そりゃどうも」
そう言って腰を上げる奴も、大概それに気づいているんだろう。それならもう喋ることもない。
てっきりそのまま仕切られた個室から出ていくんだろうと思っていた姿を目で追えば、何事もなかったかのようにテーブルへ元通り落ちついて、並んだまますっかり冷めた料理へ箸をつけ始める。
「まだ食べられるほど体が落ち着かないかい?」
そうして当然の顔をしてこちらへ聞いてくるものだから、呆気に取られかけた。
表情だけでそれと分かるほど顔に出ていたんだろう。一度切れた言葉が、こちらを見て次がれる。
「食事を残すのにはどうにも抵抗があってね。君にも手伝ってもらえると助かるんだが」
その中にもさっきまでの話なんか欠片も出ちゃ来ない。それで手打ちってことなんだろう。
考えを変えられなかった以上、どう生きて行こうが自由。それ以上の介入はしない。相互不干渉状態。上等だ。それが望んだ結果のはずだ。
足に力を込めて椅子を支えにすれば、もう立ち上がることはできた。そのままテーブルの前に立てば、今度はこちらが見下ろす側になる。
「生憎と、すっかり物が食べたい気分じゃなくなっちまったモンでね。お先に失礼」
踏み出す足取りがおぼつかないのは自分でだって分かっている。だがこれ以上ここにいる理由もなかった。
いればいるだけ惨めになるばかりだ、その確信が足を動かしている。
「そうか。しばらくどこか、落ち着ける場所で休むといい。
誘ってくれてありがとう」
背中にかかる言葉はどれもこれもやはり白々しく聞こえて仕方がなかった。もはや俺がただそう聞きたいだけだったとしても。
「生きてくれよ」
だがそいつだけは、どうにも否定しようがない。そして氷獄で会ったあの日のように、何故と疑えるものでさえない。
どれほど馬鹿馬鹿しくたって、もう言い返す言葉さえない。本気で言っていると、それほどまで理解させられたものには。
入口へ辿り着くまでの僅かな間にさえ幾度も壁に手をついて身体を休ませる。そんな奴が誰の目にも止まらないなんてことはない。とりわけ、相当ランクの上だろうこの店なら。
声をかけてくる店員を制して、ついでに会計を全部連れに任せる旨まで伝えて、外へ向かう。
港湾部からいくらか離れたタワー入口寄りの商業区。連れて来られるまま来ただけの、足を踏み入れたこともないような土地。だがそれでも、面した路地から表通りへ向かう方向程度は分かる。
風景の一つとして行き交う人波を眺めたって、住む世界が違うと思うような連中ばかりだ。歩く間に対塵スーツそのままの俺を眺める目は、どれもこれも異物を見るそれ。
反射的に睨み返すことへは欠片も躊躇はない。
ここにあることを否定してくるのなら、それ以上でもって否定し返さなければ居場所なんか手に入るわけもない。目を逸らして向こうに正しさを明け渡す理由も、その視線に怯えて身を縮こめる必要もない。それは今だって変わらない。
だがその視線へ篭める感情は、これまでしてきたそれとは微か異なっていた。
初めはただ違和感としてだけあったそれが何であるかを細分して、いよいよ自分に呆れる羽目になる。
探していたのだ。
このコンベアのように流れる人波の中から、別人になったかつての友を。
馬鹿馬鹿しい。その言葉にいくら飾りを足したって到底足りやしない。
突っぱねたのはいよいよ上っ面だけだ。内心じゃあもう完全に、言われたことに縋ってしかいない。
それに誰に明かされてもならないものを、ただ一瞬目視しただけで見破れなどするものか。
一人笑い出した俺へ向けられる眼は怪訝なそれへ変わった。気狂いとでも思われたんだろう。いよいよ見てはいけないものを見た目をあからさまに逸らして行き過ぎていく奴さえいる。
そりゃそうだ。自分自身でだって、そんな奴がいたら一瞥を向ける価値さえないと思うだろう。だが今の俺はどうしたってそういうものだ。
だが俺から見れば、俺には欠片程度は価値があるかもしれなかった。これほどどうしようもなくても。
今すぐじゃあまったく足りやしないだろう。なにがしか訓練を積もうとしたってどれだけ要るかは分かりやしない。
教えを乞う相手を探そうにも、おいそれと見つかるものでも教えられるものでもない。だが可能性があるとすれば、そして今最も目があるのはただ一つ。
第三種制御識《連環》。記憶を繋ぎ内心に滑り込む制御識。
今よりももっともっと繊細にそれを取り扱うことができたなら、あるいは見つけられるかもしれなかった。
雑踏を往く全身整形の中に隠れた、この両眼を横切る傷跡を。それが刻まれたものたちばかりが過ごしたあの頃の思い出の持ち主を。
笑いが止まらないのはそれが夢物語だと分かっているからだ。本当にできるのかさえ判然としない。可能性がある、ただそれだけの思いつきに過ぎない。
だがそのくだらない思いつきは、認めたくはないが煌めいているように思えた。そのくだらなさに任せるまま、この路上に放り捨てられない程度には。
そしてそれを胸に持ち続けるのなら、戦わなくてはいけなかった。その希望を叶える時間を手に入れるために。
それだけはできると信じていた。こんな気紛れに振り回されなくたって、それだけはしなければならなかった。
友のためにするはずだったそれへ、ほんの少し、自分の理由が乗るだけだ。
声を上げて笑うなんて随分と久方ぶりで、その全身運動は歩くことすらままならない体によく響いた。
感情よりも息の切れる喉の方が先に音を上げて、声は擦り切れてトーンを落としていく。
そうして再び無言になって蹲っていれば、思考は自然、今しなければならないことへ向いた。
上げる視線は商業区画を覆う大型アーケードへ。そこから見える赤い空にくっきりとシルエットを落とすのは、港湾区よりもずっと近く、常よりもなお巨大に見えるタワーだ。
『破滅の間際にて、停滞せよ、世界』
『世界はいまのままで十分、美しいのだから』
あの始まりの日にそう言い残した親玉は、あの中層だか上層だかに陣取って待ち構えている。そういう話だった。
一般人どころか三大勢力すら、相当のお偉いさんでもなきゃ手をつけることも許されないその秘匿区画に。
それがどういうことなのかは言うまでもないし考えるまでもなく、その結果がどうであったとしてやることは変わらない。
何だろうが殺し、海の藻屑にして未来を掴む。
それは今までずっとしてきた生き方で、今に至っても変える必要はなかった。
今から港湾部のガレージへ戻るよりは、地図データだけを確保してこの近辺で休めるところを探した方が早いだろう。どちらにしても突入口発見の連絡が目覚ましになることには変わりはない。
それを思ってもう一度笑いが漏れかけたのは、あの廃格納庫での目覚めを思い出したからだ。
『おはよう。目は覚めたかな?』
次に俺の目を覚ます連絡は、あんな持って回った言い回しなんざ絶対にしないに違いなかった。
することが決まればもう立ち止まっている理由はなかった。一分一秒でも長く、この身体を休めなければならない。
踏み出すその足取りは、闇雲だろうとほんの少し、確かさを取り戻しているように思えた。