だがその前に現れたのは、予期せぬもう一機だった。
それを俺は暴風と錯覚した。埃を手で払うように無造作で局地的な、だがそれ故に何の容赦もない、鋼の集合体であるはずのグレムリンさえ塵のように容易く吹き飛ばす不可視の波を。
その加速に危うく吹っ飛びかける意識を引き戻したのは痛覚。規定量を超えた衝撃を察知した棺内エアバッグは淡々と作動して、システム通りに俺をぶん殴る勢いで膨張する。
何が起きている。その手掛かりを探して巡らす視線が捉えたのは未だ生きていたカメラ映像。その中にはっきりと映る、遠ざかってなお変わりがないほど巨大な。そしてグレムリンでありながら人の形すら捨て去った四つ腕の機体《ヴォイドジェネシス》。
そいつは変わらず悠然と立っていた。タワーの内部へ侵入し集合したグレムリンのすべてを、まるで機体と螺子のような体格差で見下ろし相手取りながら。
あの場に戻らなくてはいけなかった。何をされたとしても。あれもまた壊さなければ未来はないと言うのなら、やることなんか一つだった。
気絶しかけてなお手の中にある出力レバー。それを倒せばホーネット・フレームの加速は慣性を振り切って、また俺をあそこへ連れて行くだろう。
しかし鳴り響いた棺内アラートは、俺のその期待を木っ端微塵にぶち壊すものだった。動作チェックでしか聞いたことがなくとも聞き違うはずもない特別警報。
それは破壊されてはいけない箇所が破壊し尽くされていることの通告。つまりは、撃墜が迫る証。つい一秒前まで傷一つなかったこの機体に。
背筋が凍りついたのはその方法がわからなかったからじゃない。思い当たってしまうからこそ、それを覆せないこともまた理解できてしまう。
第四種制御識《希望》の極致、無傷の機体を何の前触れもなく即座に破壊し得る力。意力撃滅と呼ばれるそれは、俺だってこの3週間余りに散々振るってきたものだ。
そして知っているからこそ、法則と、これから起きることもまた予測できる。思念を振るうトリガーとなる敵意は、具体性を伴っていなければならない。
カメラの視野へと飛び込んでくるこの幾条もの粒子砲の光のように。
真っ白に潰れた視界の中で感じるのは前後から挟み込むような衝撃と耳をつんざく破砕音。その後に吹き抜けてきた風は、紛うことなく本物だった。
グレムリンの中でも最も頑丈なはずの操縦棺さえ割り砕くほどの波状攻撃が中のテイマーを無事で済ますはずもない。側頭部、片腕、脚、腹もいくらか。
だがただの一息で苦しいのはそれだけのせいじゃない。呼吸器が中から焼け付くようなその嫌な感覚は、間違いなく粉塵入りの空気を吸った時のそれだ。
追い打ちをかけるように、内臓が捩れそうな感覚とともに下へ下へと急速に身を引く重力。そして見上げれば逆光に浮かぶ、長い嘴を備えた頭のシルエット。
そのすべてを突きつけられれば、否が応でも理解せざるを得なかった。
グレムリン一機分の質量、それを玩具のように吹き飛ばす加速度、そして止めの死体撃ちが、どんな兵器よりも乱雑にタワーの壁をブチ抜いて。
そして『フォールスビーク』というグレムリンを、パーツ以下の鉄クズへと破壊し尽くしたのだと。
『こんなのは勝負じゃないよ』
支え一つない虚空を限りなく落下しながら脳裏をよぎるのは、まだ聞いて30分と経っていないはずの、だがあまりにも遠い台詞。
《ヴォイドステイシス》。タワー上層に鎮座していた、この事態の元凶だったはずのもの。
世界すべてを停滞させる不滅のグレムリン。《傷跡》の制御識の化身。そいつは蓋を開けてみれば、ただのお育ちのいいガキそのものだった。
無敵の座を捨ててむざむざ相手の土俵に上がってくる。一方的でない『勝負』がしたいから。そんな真似はそういう奴にしかできない。自分が死ぬなんて露ほども思ったことがない奴にしか。
それは確かに不死だった奴にしかできない隙で、だからこそ存分に付け入れた。大仰な呼び名に見合うだけの化け物を、破壊し得た。
だが《ヴォイドジェネシス》にそれはない。あれは間違いなく死を知った人間で、死を撒き散らして何の呵責もない大人だ。そういう奴がやるのは対等な勝負なんかじゃなく、ただ一つ、今成されていることに他ならない。
一方的で抵抗しようのない、蹂躙。
『この世界には、シミュレーションとか、勝手な予測とか、想像とか……全部超えたような何かが待っている。
それこそが、未来なんだって、思います」
『死にゆく世界へ手向ける花』、『グレイヴキーパー』、そんな名を名乗ったきり現れなくなった夢の中の女、フヌ。
現実世界で聞いたただ一つの声は、シミュレーションデータに紛れ込まされていたそんな台詞で。だがそれだって、こんなことに引っ掛けるために遺したものじゃなかったろう。
その声は希望に満ちていた。この世界をぶっ潰すものとの仮想戦の場に響くには場違いすぎる、穏やかで期待に満ちた声。
不意に化け物がもう一体現れて息の根を止めてくるような、そして今目の前で起きているような想像の超え方なんか、それを録った時には微塵も浮かんじゃいなかったに違いない。
『未来は人間の視界に捉えるには巨大すぎる』
アンタだってそうだろ、教官。《未来》の制御識の予測ってものは本当にアテにならないってことが、今となっちゃ身に染みて理解できる。
だがそれが当たってくれていた方が万倍よかった。あのスモークの中のグレムリンたちの世界。訳の分からない、だが一応ああした形で知っちゃいる世界が訪れてくれた方がずっと。
こんな。
こんな、目に映しきれないほどの空が、知らない色に塗り変えられていく世界より。
それは夕暮れ、あるいは夜明けに似ていた。空は端から徐々に塗り変わって、境界線が音もなく動いていく。
今はもちろん見慣れた黒と赤でそれが成される時間じゃあない。だが実際、見上げる空は間違いなく蠢いていた。時計に従ったにしてはあまりにも忙しなく。
見慣れた赤色はみるみるうちに面積を失って、代わりに空を覆っていくのは、奇妙な、例えようもない、この世のものとは思えない。
見たこともない、いちめんの青。
青花のエンブレムなら腐るほど見てきた。それに限らなくたって、三大勢力の名前になるほどありふれた原色なんか数え切れないほど使われている。なのにそのどれとも違う。
そこには何もないのに、確かに色があって、透き通っている。
名前は知っている。だがそう呼んでいいのかも、同じ色と当てはめられるのかも分からない、どうしようもない異物。
湧き上がるのは拒否感。それが見慣れた空に我が物顔で陣取って、ぐるりと俺の全周を取り囲んでいくことへの。
こんなことができる可能性なんか一つしかない。そしてそんなことは、あの《ヴォイドステイシス》を見てなきゃ思いつきやしなかったろう。
あの《傷跡》の化身のように、意力撃滅を無造作に振るった《ヴォイドジェネシス》が第四種制御識《希望》の化身だったとしたなら。
その力は戦場においては不可視の銃弾で、無限の力を持つ兵器だ。だが戦場を離れたその本質は違う。
それは望んだことを起こす、世界を望みの方へ変えていく力だと。アルテアではそう言っていて、四種持ちの連中と後でゲラゲラ笑っていた。それが本当ならどんなによかったかと。
それが真実だったとしたら。そしてあの化け物が、その力を無限に拡張したとしたら。
思い当たるような望みは嫌になるほど聞かされてきた。今じゃ見ることもできない青い空。思うまま外に出られる粉塵のない空気。今と比べりゃずっと平和だったとかいう世界。
その頃へ帰りたがる人間なんて腐るほどいて、だがその誰も時計の針なんか戻せやしなかったから、飽きもせずに繰り返されるその話を聞かされるばかりだった。
今となっちゃそれは『聞かされるだけで済んでいた』と言う方がよっぽど正しい。誰もそのための力を持っていなかったという方が。
今じゃあその懐古趣味な、しかし圧倒的多数の望みとやらはあの化け物に組み込まれて、こうして世界を丸ごとくるむ現実に成り果てた。
ああ、こんなことをやらかそうって奴が誰だか知らないが、てめえの眼中に俺達なんぞ入っちゃいないんだろうよ。粉塵の下に生まれ赤い空とともに育ち、その中で戦ってしか生きられない人間のことなんざ。
そんな奴は吐いて捨てるほどいた。だがてめえほど思い上がった奴は初めてだ。
思い上がった、それ以外にどう呼べばいい。てめえの意識と見聞と視界になかったものをそのままいよいよ無かったことにして上から塗り潰す。ただ純粋に続いていくこの先が欲しかった人間がいると気づいてさえいない、その、傲慢!!
「クソがあああああああああああああああああッ!!!!」
煮えくり返る感情を剥き出しにした、喉の裂けるような絶叫。中空へ目標もなく振り上げた拳。だがそれに、空気を震わせてついでに内臓を痛めつける以上の効果はない。
思念ならこれまでのいつよりも宿っているだろう。だがそれに何の力がある。
粉塵の代わりについに世界を覆い尽くしたあの抜けるような空、あの化け物の思念の前に。
振りかざした腕は、目の前で勢いのままあらぬ方向へ曲がっていた。激昂が遮断していたその激痛に気が付いた時、背に何かがようやく触れる。
瞬間、全身をしたたかに打つ痺れるような衝撃と轟音。息を吐き切った肺が反射的に吸い込んだのは、周囲のすべてを満たす海水。
吸い込まれるように落ちた意識が向かう瞼の内側の闇。そこが世界にただ一つ遺された、あの青色のない場所だった。