教官の目から見た、自分たちの決して知り得ないその光景。それは火花を散らすような対立だった。
掴みかかった側とかかられた側。二人の影が重なれば、元より大きすぎる図体は倍に膨れ上がったようだった。
襟元を掴むのは生身近接戦闘および生徒指導教官。自分と一二を争う体格の持ち主の視線と怒号を至近で浴びてなお、男の顔に一切の動揺はない。
第三種制御識《連環》指導教官のアルテア一の鉄面皮は、この状況でも揺らいじゃいなかった。
「あんなものに手ェ出すなんざ青花の名折れに決まってるだろうが!! その意味、分からねェなんざ言わせねェぞ……!!」
「その『あんなもの』がこの船に積まれていることをどう考える、ラーズイ教官。
この件に関する緘口令がいつまで保つかも、元より今保っているのかも分からない状態だ。不信が全生徒へ伝播するより早く手を打たなくてはならない。
それを考えれば、精神干渉および記憶そのものの改変は即効性と確実性の双方を確保する手段と」
在んのかよ。仮にも青花の船に。そんなモンが。
心中の呟きがもし肉声として出たなら、そいつはさぞかし酷く引き攣った絞り出すような音になっていたことだろう。
いくらなんだってそこまで酷いとは思っちゃいなかった。そいつは青花が後生大事にしてやまない自由とやらの最大にして最悪の敵で、使ったことがあるなんざ公言しようモンならゴミを見る目を向けられる程度じゃ済まない。
この場の全員、それを知らないはずもないのに。
その思考と、そして続いていた話を中断させたのはラーズイが振るった拳だった。凍りついたように固まっていた周囲がようやく動き出し、大の男数人が群がって無理矢理に二人を引き離す。
殴られた側はといえば懲りた様子の一つもなく、赤く腫れ上がった痕に手を当てながら遠ざかる大柄な影を眺めていた。
「どうせもうあの女に使った後だろうに」
「あれはそうした敵対者への最終手段として用意されたものだ。決して青花の同胞の心を曲げるためにあるものじゃない。
それにもし許可が出るのなら、これだけ頭を悩ませて子供たちの相手をしていることそのものが無意味にならないかい」
声をかけたのは第一種《未来》担当、つまりこの光景の記憶者自身。
「子供達へもまた最終手段となり得るのではないか、また現状はそれを選択肢として考慮すべき事態ではないかと言っている」
「その提案が出るのももっともだね。だが、僕も反対を表明しておこう。ラーズイ教官ほど荒っぽい形ではないにしても」
「まったく肩身が狭いな。囲まれた気分だ」
「分かっていただろうに。
だがその中で、少数派であろうことに臆せず提案を行ってくれた君に敬意を評するよ。後でビエチル教官の世話になるといい」
「現状、保健室は可能な限りのリソースを生徒のメンタルケアへ充てるべきだ。
自分もまた、装置が必要なくなるのならその方が良いと強く思っていることは理解してもらいたい」
「……それを初めに言っておけば、こんなことにはならなかったんじゃあ」
眉を下げた小柄な女、第二種《傷跡》指導教官が小さな声で割って入るのを聞いても、第三種指導教官の仏頂面は変わらない。
その目は細められたまま、違いないと同調する第一種教官の方へ向く。
「その点は確かに自分の不行き届きだ。だが今は未来の話に少しでも時間を割きたい。
……反対派だというなら聞いておきたい、ブラウ教官。
これを看過したことで生徒の離反および青花のグレムリンに関係する技術流出が発生した場合、どう対処する」
「それが発生しないように、またあれにも頼らないように、他のあらゆる手を尽くした前提、ということで構わないかい」
「無論」
「ならば僕は、それが彼らの自由の下の選択だと考える。与えられた情報の元、自分の意志に基づいて判断した結果だと。
つまりその時点で『対処』はすべて済んでおり、それは失敗に終わった。その結果として挙げられた問題が発生している、という見方だね」
「答えになっていない。
それに、元とする情報そのものを歪められたうえでの選択を『意志に基づいた判断』と呼べるのか」
「その歪みを矯正するあらゆる努力を尽くしてなお通じないのなら、それは彼ら自身があちらを信じる方を選んだということだろう。
それに基づいて彼らが新たな所属を得るなら、それが彼らの生き延び方で、自由を行使した結果だ」
聞いている鬼教官の眉が、そこでようやく動いた。その怒りとも呆れともつかない顔は、俺たちが唯一知っているあいつの表情らしい表情だ。小さく開けた口から漏れる、深い溜息までがセット。
「理想主義者の同僚を持つと苦労する」
「それが許されるのが師団であるべきだ、と思っているだけだよ」
そういうところだよ。そう言いたげに睨めつける目が、思わぬところから伸びた手に振り返る。
巌の巨体の隣に座るとなお小さく見える第二種教官の女が、震える指で小さく肩を叩いていた。
「……そこまで思い切ったことは言えませんし、はっきりとした対案を持っているわけでもないんですが。
私も、ブラウ教官に賛同します」
続けろとばかり注がれる目一つにさえ小さく肩を跳ねさせて悲鳴を飲み込み、しかし合わせる視線は決然としている。
似合わない顔だと思った。あの女、こんな面なんてできたのか。
「歪められた情報のみによって判断するのは意志とは呼べない。それは正しいと思います。
ですが……彼らの耳に入る情報や選択肢を一番歪めて制限しているのは、私たち自身じゃないでしょうか。
船を降りる自由もなく本人の嗜好や興味とも関係なく、幼い頃から軍事訓練をさせる。私たちがしているのは間違いなく、彼らの人生への最も強い束縛です。
そんな私たちが、あのやり口を責められるんでしょうか。これ以上私たちの都合で、記憶や心まで歪めていいんでしょうか。
だから、できれば、私は彼らに自分で選んで欲しいんです。説明を尽くした上、証拠を示し尽くした上で、納得して」
「それはもっともな指摘だ。我々は養育者としては厳格で、狭量だろう。それも非常に。だがその代わりに、彼らの命だけは守ることができる。
青花グレムリンの機密を握る彼らが青花に不信を抱き離反すれば、口封じを考える者は必ず出るだろう。
一度は師団の手で救ったものを、同胞の手でむざむざ散らす。実に無意味だ。それだけは避けたい」
その言葉は的確に一番の泣き所を突いたんだろう。
ものも言えなくなってすっかりいつものように縮こまった女から、ブラウ教官が選手交代とばかり言葉を引き継ぐ。
「大事な指摘をありがとう、ニフ教官。そう、僕たちは彼らの命を握って、今既に自由を制限している。
だがそれがいつまで続く? 送り出した一期生たちのように、彼らもいずれ出ていく身だ。その先を僕らが管理することは難しい。
青花の倫理を冒してここで彼らを守っても、次もそうしてやれるわけじゃない。
それを考えれば、僕らが教えるべきはただ、自由と命はいつだって天秤にかかるということ――」
自由と、命。
先から出ていたその二つがそうして並べられた時に、目の前の風景のすべてが爆ぜるように崩れ落ちた。
ふざけるな、どんな兵器よりも強い思念の業怒に一瞬にして焼き尽くされて。
それが天秤にかけられる意味なんか知りすぎるほど知っている。どちらもが。どちらもが当たり前にあったなら、皆あんなことにはならなかったのに。
それを身で教えるのがおまえたちのやり方だった。あの場でどんなに議論を尽くしているようでも、俺は行き着いたところを知っている。
口封じをする側になったのはお前たちだ、さもなきゃお前たちは俺たちの頭まで弄るつもりだっただと、どっちにしろお前たちは天秤から俺たちを下ろす気なんかなかったんだ。
そう叫び続けてすべてを遠ざけた場には、もう何一つ残っていなくて。
『――フォグストラクト・ワン、第一試合! いま開始です!!』
その虚空に響いてきたのはあまりに場違いな、悩みの欠片も感じられない声。
振り向くように意識を向ければずっと遠くにあったその光景の方から勝手にこちらへ近づいてきて、真っ白な点のようだったその中にあるものが次第にはっきりと見えてくる。
立ち込める白く色濃い煙の中へ消えてはまた現れるいくつもの人型。
時には互いが交錯する一瞬に手の武器を振るい、轟音とともに銃弾を放つ。二本の足があれどステップもなければ走ることもない、気嚢とブースターで制御された飛翔の動きは見間違いようもなく。
(……グレムリン?)
だがそれにしちゃどうも可笑しい。どれもこれも見たことのないシルエットのパーツ、各自が見せるのはあり得ないほどの急加速に異常な頑丈性。それにこれほどの数の機体が飛ぶ場所が屋内のはずがない。
何より、こんなにも。
『ここで冬橋選手が被撃墜!
あまりにも早い退場に会場も動揺を隠せない! チーム・レッドはこの数の不利をここからどうカバーするか!?」
こんなにも明るい戦闘が、あってたまるか。
そう吐き捨てたところで、お望み通りとばかりその光景は消えていく。
不意に空から垂れこめた、粉塵よりなお濃いどろりとした赤色に塗り潰されて。