その可能性に、いつよりも直面せざるを得なくなったアザミネが取った行動は。
「僕の知ってる店ではここのバイオチキンが一番本物に近いんだよ」
「本物、食ったことないスね」
「そうか、まあ予習には丁度いいだろう。試していきなさい」
自分で言い出しておきながら、心底馬鹿馬鹿しいという感想しか浮かんではこなかった。
この、高級ですよとひけらかしやしなくても分かる洒落た店。明らかにそこに望まれた客じゃあない、対塵スーツそのままの俺。それを何一つ気にかけず、ただそこに俺がいるということだけに奇妙に浮き足立った教官。
目の前に並ぶ鼻をつく香料がふんだんに使われた肉、けばげばしい合成緑に着色されたバイオビーンズ、そして泡を立てるビールもそう。
そして、ここに連れられてきた理由も。
「それじゃ」
「いきなり行くね。乾杯くらいはしたかったものだが」
「……あー、すんません」
「いや、構わないよ。君からお誘いが来ただけで嬉しいことだ」
「随分な評価、ありがとうございます」
「在学中の君は、こういうことからは一番遠い子だったと思っていたからね」
酒教えてくれませんか、なんて、旗艦で会ったあの日にねじ込まれた走り書きの連絡先をどうにか解読して、突然送り付けたそんな誘い文句。
検討を重ねてすらこれしか思いつけない自分も救いようのない馬鹿だなと思ったが、乗ってくるこいつは輪をかけて馬鹿だなと、先導するその背へ送る視線は自分でも分かるほど冷たかった。
本当にそんな能天気な理由で人を、それもこんな相手なんぞ呼び出しやしない。ただ今聞きたいことを聞き出せそうな相手などこれしかなく、今を逃せば機はないかもしれないという危機感、あるいは今以上の機なんてこれより後には来ないかもしれない、そういう期待感に急かされただけ。
もし、世界がこれ以上保たないとしたら。世界の不具合とやらが拡大し続けて、奮戦空しく俺たちは無だか死だかカタストロフィだかに放り込まれるとしたら?
その可能性は絵空事だと笑い飛ばすには大きくなりすぎた。あの綻びそのものの姿をした未識別として、目の前に形を取って現れるほどに。
「ノーコメントで。
……でも、覚えててもらえてんのは本当にありがたいですね」
「これでも教えた身だからね、教えた相手のことはできる限り覚えておきたいさ」
「昔の話ができる相手なんざそうそういないスからね、このご時世。
……アルテアも、もう無いんでしょう?」
「……ああ、なるほど、それでかい?」
「はい。最初聞いた時は耳を疑いましたよ」
そうして銃声も硝煙の匂いもエンジンの唸りもない場所から来る死を思った時。明日世界が滅びるとしたら、そんな現実味のない問いへの答えを本気で考える羽目になった時。
あまりにも答えはあっさりと出た。
真実が、知りたくなった。もはや存在もしない、いやそれさえも虚言でただ地下に潜ったのかもしれない、そう思わせる場所。アルテア・スクールのことが。
「それに、ここのところ変なことしかねえ。怪奇現象って騒いでたうちはまだマシだったんスね。
このタイミングで港湾部がこんな騒ぎになるなんざ思っても見ませんでしたよ」
「十二条光柱か。騒ぎになるのは僕も意外だったな。
長らく空にあるとはいえ、特段気にされていない存在に思っていたが」
今なら探りを入れたって、殺されるまでにいくらかは足掻ける。虚空領域の端から端までも行き交え、どこへ消えたかも悟らせないヴォイド・エレベータほど逃げ隠れに向いたものもない。それを通過して追走し得るグレムリンの所持者は、ジャンクどもが壊滅した今となってはごく少数だ。
それに第一、その手が俺に追いつくよりも前に世界の方がなくなるようなら死の未来に怯える方が馬鹿げている。
あるいはそれを超えて世界が残れば。あの未識別どもがいない時間の方が俺の死より先にやってくるのだとしたらそれで構わなかった。
それでもう、戦う目的は果たされる。
動かないグレムリンを解析する猶予を世界にもたらす。平和がほしいとただ言うよりもずっと具体性を持った、敵のない時間の使い道。
「俺も気にしたことなんざなかったですけど。
ま、こういう状況なら、ちょっとは俺が妙な真似をしたっておかしかないでしょう。昔話とか」
「未成年飲酒だとかな」
「見えます?」
「店員だって何も言わなかったろう。僕だってそれを咎めるつもりなら最初から乗りやしないさ。
それに、非行としては随分可愛いものじゃないか。今のテイマーができる範囲を考えればな」
あの別れ際の言葉からすれば、警戒を緩ませるために酒が飲みたいなんて話はなかなか効きそうに見えた。
こいつはきっと、自分を『よくしてくれそうな大人』だと信じさせたがっている。ならそれを演じてやるまでだ。
それに、世界が滅びる前にしておきたいことと言われて『生まれて初めて酒が飲んでみたい』なんてのは、いかにも考えなしそうで。だからこそ俗っぽくて、あり得そうな回答だった。
「その心の広さに乾杯といきたいですね、今からでもいいなら」
「もちろん構わないさ、それじゃ」
「…………乾杯」
だがアルテアでこいつがどういう立場にあったかを考えれば、警戒と工夫は重ねなければならない。
第一種制御識《未来》統御指導担当教官。すなわち予知能力者。それも指折りの。
グレムリンなしでそれがどういう現れ方をするのかはアルテアの同期、つまりこいつに指導を受けていた級友から聞いていた。俺の見るものによく似た映像、やたらによく当たる勘、そういうものだと。
だからある程度、何かが見えていること、こちらから仕掛けて知らず躱されることは予期しておかなければならない。
逆に言えば見えても分からない、仕掛けられたと分からなければ通る隙がある。
「肉はどうだい」
「……香料強いスね」
「人工ガーリックは慣れないか」
必死になって自然さを装うくだらない話の応酬。口に運ぶ培養肉の薬臭さを誤魔化すためにまぶされたそれ以上の臭気。ケーブル束でも噛むような繊維の感触。それを合成アルコールで流し込む様子に返ってくる小さな笑い声。
何もかも、しなくていいのならするわけもなかった。
その奥で少しずつ綻んでいく精神の扉が。
心へ入り込むための隙間が、少しずつ開いていくのが感じられるのでなければ。
気づかれるかもしれないのなら、何をされたかも分からないまますべてを知ってしまえばよかった。
第三種《連環》、精神連結。第五種《祝福》、限界突破。俺に備わる二つの制御識は、思いつけば誂えたようにそれに向いていると思えた。
ただずっと、誰にもそうしようと思ったことなどなかったというだけで。
かつての級友たちにそうして土足で踏み入る理由もなく、その後会った誰一人として踏み入りたくなるほどの興味もない。
だから俺の連環は、そこに割り入ってくる何かを捉えてばかりいた。それを静かに、いまひとりへ向ける。
脳裏に浮かべるイメージはそれこそ束ねられた繊維だ。解してどこへでもつなげることのできる柔軟なケーブルの束。それを細く細く解して、隙間を滑るように割り入らせていく。
まるで手慣れているかのような動きは、何にされているのかも知らない祝福の賜物とでも言うべきか。連環に比して扱うことの少ないそれも、求めればすぐに意志に応えた。
今食べている食い物の味。俺の顔のイメージ。行き過ぎた、そしてこれからの仕事。次々に見えるどうでもいいものを片端から通り過ぎていくのは、長い長い廊下を駆け抜けるのに似ていた。
アルテアの記憶を。あの場への、深い執着を伴う記憶を。
そう求めて脇目も振らず、偵察機じみて音もなく走り続ける。
その果てに辿り着くイメージの前で、ようやく、足を止めた。
見えるのは随分と立派な部屋、その部屋に見合う豪奢な椅子に座る壮年と、もう一人。
今になお面影を残した、随分と若い、教官。
『はい。正式な名前を得たのは軍籍に入ってからです。このお話をいただいて退官を。
血縁も家族もない人間は、適当だったのでしょう』
『同じ孤児を相手とするのは、辛くはないかね』
『いえ。むしろ、だからこそ力添えせねばと思います』
『この赤い空の下で。ろくに外へも出られない世界で。
オイルの浮いた水を啜らず生きられる人間が一人でも増えるなら、与するのにそれ以上の理由は必要ですか』