再び踏む小群島は、またも記憶とは全く異なる風景へと姿を変えていた。
硬い鉄板の上に腰を下ろせば、ようやっと周りをじっくり眺める余裕ができた。ここまでにちらっと見てきた通り壁も天井も明らかに急ごしらえ、そのくせ人間だけは溢れ返っている。
押し手が見えなくなるほど箱を満載した台車が大声を上げて通り抜け、許可もないだろうにダクト下を占拠して立ち並んだ屋台の客引きをかき消す。その後を汚れた服のガキどもが追って走り、つくりが適当な床に引っかかって案の定横転した台車の荷物拾いを手伝うふりしていくらか懐へせしめた。どっかの制服のおっさんが怒号を上げてそいつらを叱り飛ばしても、人波の隙間を縫って逃げる子供を追うにはその図体は大きすぎる。
鼻で笑いながら別の方へ目を向ければ、そこだけは粉塵避けにしっかり作られた窓から赤い空気に遠く霞んで見えるのは旗を掲げた人型のシルエット。こうして別の島からでも見えるほどに大きなグレムリン像は、領域解放記念とか言って作られたものらしい。一心にそいつを拝む連中に埋め尽くされた窓の周りだけが別の空間のように静かで、その周囲では着の身着のままの避難民が泥のように眠っていた。かろうじて持ち出せたらしい小さな荷を後生大事に抱えて。
「凄いだろ。ここ一週間くらいで一気にこの調子になったから、まだ全然……この通り、混沌としてるとしか言いようがない」
その声に、雑多を絵に描いたような光景から目を離して正面を向く。
テーブルとは名ばかりのかろうじて平坦にネジ止めされた板、その上に置かれた二杯のコーヒーを挟んで、困り顔のラトーが笑っていた。
「一月前の俺に小群島だっつっても信じねえよ、こんなの」
「何もなかったもんな、アネモネくらいしか」
「そうそ、師団どころか虚空領域一のクソ田舎」
そして、昨日の俺に言えばもっとだろう。
あの死に体の工廠を見た後の俺なら、こんなものは確かに実際目にしなければ信じなかったに違いない。
「……でも、アネモネがなかったらこんなことにはならなかったろうな」
そしてその工廠もまた『生き返った』としか言いようのない復活ぶりだった。
もちろん、あれほどの損害の傷跡を二週間程度で埋められるはずもない。しかしどうやったのかグレムリンの死体で埋め尽くされたハンガーにはいくらかの空きができて、人員も少ないとはいえ前の生気のなさに比べりゃ意気も働きも雲泥の違いだ。
「あの後もストレイキャットは随分出たよ。
これは、そのために寄ったグレムリンが戦ってくれた結果だ」
そもそも工廠が『死んでいる』って俺の見立てそのものが間違いだったのかもしれなかった。
工廠が死に絶えたのならそんな場所でどうして換装ができた。どうして後から後からテイマーがやってくる。どうしてグレムリンを診られる。
「にしたって、こんなことになるまで受け入れるこたねえだろうに。氷獄の旗艦も相当だったが比じゃねえぞ」
どうして気づけなかったんだか。漏れ出た苛立ちの矛先が不意に向いたのを、相対する目ははっきりと怒りをもって睨んできた。
「アザミネ」
「悪り」
「そんなこと言ったら放り出されるのはそっちだ。一番後から来たのはお前なんだからな」
そう一息に口に出して、ラトーは一度コーヒーで口を湿す。
「……でもお前がテイマーだってのが知れれば、まあ助かるかもしれない。それも、たった今飛んできたやつのって言えばさ。
こんな民間施設ができても、ここの核はやっぱり工廠だ。戦える、動けるグレムリンの支援施設」
知っているさ。さっきのあの翡翠みたいに像を拝む連中を見ても分かる。今のテイマーというものに、どれくらいの力があるのか。
そしてそれがどれくらいの物事を正当化できるか。
例え今この群衆の中に『フォールスビーク』の正当な持ち主がいたとして、その主張を一蹴できる程度にはあるだろう。
動くグレムリンを奪うなんてことは初めてじゃない。
だからお前を誘っているんだ、と口に出そうとして、――そこから出たのは音にならない息だけだ。
俺のものと同じ眼窩を横切る手術痕を持つ瞼が開いて、覗いた目はそれほどまで真っ直ぐに俺を射抜く。
「だからその一員として、僕はあの提案には絶対に頷けない。
工廠で機体を奪われたなんて話、一回でも起きたら二度とアネモネに人は寄り付かない。
噂がどんな速さで広まるか、この二週間で嫌って程わかったしね」
その声も語り口も、努めて声を潜めているのもあって一貫して静かだ。ただそこに煮えたぎるような怒りのあることは疑いようがない。
堰を切ったまま止まらない台詞はその証明として余りある。これまでずっと堪えてきたか、あるいは蓄えてきたものだ。
今すぐの話なわけがない。きっとあの通信で交わした言葉の間に挟まった不自然な沈黙のその時から。
「調整の要る機体が寄るのを中止するようなことも出るだろう。それが元で落ちるんなら、それは防げたはずの負けだ。
その機体が救えた人ごとみんな巻き込む戦力の喪失だ」
機銃のように吐き出され並べられるその論理は驚くほど正しい。教科書じみて。
グレムリンの一機は何人の人命を救えるか。自分が直接乗るのでなくても、アネモネにいることで間接的にどれほど影響できるか。今のこの状況を見ればそれもまた自明だ。
それを認識するほどに、ひどく視座のずれていることを自覚させられる。
瞬間のうちに幾度となく反芻してその言葉の中に感じ取る齟齬は、グレムリンから引き剥がされたラトーがアネモネという新しい居場所で見出した、操縦棺の中より遥かに広大な世界と、そこに生きる人間と、未来への眼に違いなかった。
「ならその分、お前が乗って取り返しゃいい!!
アレがいくら性能が落ちるって言ったって、できないとは言わせねえ。
お前だってテイマーだろうがよ!!」
張り上げた声もテーブルへ叩きつけた拳も勢いのまま立ち上がる体も、振り上げられた手に対する防御反応にこそ近かった。それは俺を打ちのめすと意識よりも前に魂が気づいていた。
その視座を得た一歩、操縦棺の外への一足、親しんだ相手の離れていく恐怖は意見の正しさなんかよりよほど強烈に俺を殺すと。
肺の中の空気を一息に吐き出しきって、呼吸は酷く荒かった。テーブルに置いたままの手は横倒しになったコーヒーと冷汗でじっとりと濡れている。転がったカップが床を叩く。怒号でこちらに気づいた野次馬が喧嘩を囃し立てる声が遠い。
「グレムリンから離れたら、死ぬ、アルテアのテイマーだろ」
その一つ一つにすっかり意気を失ってさえ、吐き出されるのは懸念のふりをして縛る小狡い台詞だ。
ガキめ。
頭の中を切り分けて住みついたすっかり冷静な自己が他人事じみてそう吐き捨てる。
ああそうだよ。
戻ってきてほしい。お前がいい。同じ場所にいてくれ。そんな感情論と俺だけの目線でしかものを言えねえガキだ。
「……何を言われたって、乗る気はないからな。僕だけの話じゃない。勢力レベルの話だってある。
青花の工廠で真紅の機体に何かあれば、絶対にこの後の火種になる。今は何ともなくてもだ」
そんな奴が頷いてもらえるわけもない。提示され続ける正しさが、向けられた情を明確に弾く。幾枚もの分厚い装甲板に似て。
「だけどな」
だから次がれたその言葉はその間から開いた銃眼に見えて、心は瞬時に身構える。そこから放たれる弾を見越して。
けれど同時に拭えない違和感。……だけど?
「グレムリンのあるお前が、今でも飛べるお前が羨ましくないって言ったら嘘になる」
その感覚を立証するように、隙間から覗いたのは銃身ではなく剥き出しの棺。世界から隔てられた小さな小さな個。
未だ座ったままこちらを見上げてくる視線への確かな既視感がそれを裏付ける。
そこにあるのはかつてアネモネで、乗機をなくした虚ろなテイマーが向けてきた目だ。
紛れもない、嫉妬を宿した。
「僕の他にも、機体が動かなくてエンジニアやってる奴はいるよ。そいつら全員きっとそうだ」
そうしてその瞳は一度瞼の裏に隠れる。
眉根を寄せたその表情は今までのものから離れて、また別のものに似通っていく。
あのグレムリン像に祈る連中に。
「だけど僕たちは、まだ、空を『完全に』奪われたわけじゃない。
僕らの支えたグレムリンは飛んでる。僕らはまだグレムリンの一部でいられる。それに。
……この戦いが終われば、僕らの機体を解析するだけの余裕ができる。僕らのグレムリンが動き出す可能性は、まだ、ゼロじゃないんだ」
それは自分にとっても祝福そのもののはずだった。この工廠で未だ眠る『サーシオネ』を、こいつが知らないわけもない。
だから、その言葉は、他ならぬ俺を説得するためのもののはずで。
しかしその一言一言を、ラトーは自分に言い聞かせているようにしか映らなかった。
「ラトー」
この期に及んで悟るのは、あまりにも遅すぎただろう。
あの呆れにも似た沈黙で、隔壁じみて張り巡らした正しさで、漏れ出させるまいとしていたものが何だったのか。
それに不用意にも穴を穿とうとした俺が、どれほど、馬鹿だったか。
あるいは今も、こうして話しているだけでその壁を軋ませ続けているのか。
既に他人のそれを奪ったグレムリンで飛び続ける奴が、こうして目の前にいるだけで。
「悪かった」
変わらず響き続ける絶え間ない周りの声、ひしめく生の立てる音に包まれて、目の前の相手は微動だにしない。
何もかも、分からなかった。掠れたその言葉が届いたのかどうかさえ。