怯え切った友が語る記憶は、かつての子供達を今なお縛っていた。
「おれ、……船外出たんだ。第五教練棟の非常口、錠の電気時々落ちてるだろ。あそこから。非常ボートあるし」
「それは聞いてる。元々無断外出がどうって話だったもんな」
「よっぽどやべえとこでも――」
「違う!!」
「そ、そりゃ、行こうとしてたトコはあったんだ。
だけど皆でぎゃあぎゃあやってるうちに、今どこにいるのかわかんなくなっちゃって。
それで、その、そのときにさ……」
「絡まれたんだ、……気違いみたいな変な女に」
まだ大して話してもいない。むしろ聞いてるこっちからすりゃまだまだ触りに過ぎない。なのにその声はもう震えていた。
真っ暗な布団の中じゃ見えやしないが、どうせ身体だってそうなんだろう。
声の方向に目を向けたってあるのは暗闇だけだ。それでも印象に残ってるものってのは浮かぶもので、ここ最近で見慣れたルームメイトの、真っ青になって怯え切った情けない顔は脳裏にはっきり見えていた。多分実物はそれ以上酷かったんだろうが。
そう思っている間に、続く言葉はなかった。そいつは恐怖のあまりかすっかり口をつぐんでしまって、息をするだけで精一杯と言わんばかり。
そうなったところで、周りは元々上官命令でもなければ大人しく待つなんてろくにできないガキどもだ。そんな沈黙に堪えられるわけもない。
「おい、しっかりしろよ! 話すって言ったのお前だろ!」
「変な女って、実際どう変だったんだよ。見てくれとか言ってたこととかいろいろあるだろ」
しびれを切らして声を張り上げる奴、続く奴。
怯えたように息を呑む音が聞こえた時は駄目かと思ったが、なんとかそれで気を取り直したらしい。
あんな距離でもなければろくに聞こえもしないだろう、空調にさえ負けそうな声。
ただそれでぽつぽつと述べる言葉を、あの場の誰もが耳を澄まして聞いていた。
「変、……で、気色悪、くて……
おれのこと見た瞬間に声上げてさ、駆け寄って抱き着いてきて、
……顔も知らねえ、ずっと上の女だぞ? ワケ分かんねえ、それに、そいつおれの名前も知ってた。何度も呼んでさ、それで、」
最初は促されてやっと、という風を隠しもしなかったその喋り方が次第に勢いづいて、そのまま転んだ。
ただ、先を急かす奴はもういなかった。俺もそうだ。止められはしないが聞きたくもない、そんな気分だった。
伝説のテイマーの戦闘記録。生身の時に現れた自分を狙う機影。恐ろしくも目を離せない、そういうものを見た時に似て。
そいつは何だ。何だってそんなことをする理由がある。どうして知ってる。答えのまるで見えないそれを考えれば嫌な汗ばかりが出てくる。
じっとりと、纏わりつくような気味の悪さ。
それは布団の中にこもったいきれの湿気が大半だったろうが、その時の俺にとっては話についた実体に他ならなかった。
そうぐるぐると いる間に、転んだ話は立ち上がっていたらしい。
続いたのはただ一言。絞り出すような、呻きにも似た声。
「……帰りましょう、って」
「どこにだよ」
聞き返す声は呆然としていた。訳の分からなさがまた別の方向へ飛んでいった。そんな思いを全員が共有していただろう。
帰る。この船以外のどこに帰ればいい。ここの他に持ったこともない居所を、ぽっと出の誰が用意できるものか。
スクールの関係者が連れ戻しに来たわけでもない。俺たちの籍は間違いなくここにあって、他のどこにも行けやしない。
その答えを持っているのは、震えている言い出しっぺしかいなかった。
「……家」
「家」
「家?」
「家だあ?」
返ったその答えを呑み込むまでに、口々の復唱が3回。
無理やりにでもそうして腹に落としてしまえば、消化できなくはない。ギリギリだが、その範疇には収まった。
「……ああ、気違いってそういうことな」
「教官が言う奴だろ」
気の触れた女は珍しくない。特に子供を亡くした女は。
落ち着きのないのがスーツも着ずに弾丸じみて外に飛び出すだけで。あるいは大人の背に合わせて作られた甲板の手すりからするりと外へ出てしまうだけで。それだけで子供ってものは死ぬ。
そうでなくても子供を十全に育ててやれないことは多い。もっと遡れば、産まれないことだって。
てっきり教官たちの恩着せ話だとばかり思っていたそいつに、多少の信憑性はあったらしい。
ようやく答えが見えたと安心しきった俺たちに水を差したのは、相変わらず歯切れの悪い言い出しっぺの声。
「……かもしれない、けど、なんか……」
「なんか?」
「なんか、…………それとも、違って……」
振り払ったはずのあの湿り気が、その言葉一つで音もなく戻ってくる。
誰も口を開けない。沈黙の中で、ただ嫌に響く胸の早鐘の音だけを聞いている。
そいつもまた静かな真っ暗闇の中で、必死で説明する言葉を探しているらしかった。何が「違う」のか。その差異がどういうところから出ているのか。
ただ、まっとうな成果なんて上がらなかったんだろう。もしくは何かの名案があったとして、そいつは俺たちへの何の緩衝材にもならなかった無意味なものだ。
「一番気持ち悪かったの、抱きしめられたことでも、名前のことでも、帰るってのでもなくて……
……ぶつぶつ言ってたんだよ。おれをガッて抱きしめたまま、ずっと。
おれに話してるわけじゃなくて、聞かせたいってんでもなくて、わかんないけど、
『障害なんて嘘だ、病気なんて嘘だ、書類も全部』
『あんな奴に見せるんじゃなかった、誘拐犯どもに』
『そうすれば一緒に暮らせた』
『人殺しになんてならなくて済んだのに』って、ずっと、……ずっと……」
すっかり目が慣れたって、灯のひとつもない中では何が見えるはずもない。
むしろ何も見えないことこそがおそらくは幸せなはずだった。それを聞いて何も思い浮かばないことこそが。
けれど俺たちはその中に、すっかり見慣れた互いの顔を見ることができてしまっていた。全員の面に制服みたいに走った、目頭と目尻を繋ぐみたいな手術痕。左右で違う新生体の目の色。顔だけじゃない。カプセルの溶液に浮かぶ体に走るめちゃくちゃな傷跡だって。
一人でも例外がいれば違ったろう。だが生憎、ここにいるのは全員そういう奴だった。
粉塵性障害、新生体措置により寛解済。
当然に書類へその文字の刻まれた、赤い空の下に産まれた子供。
この間中ろくに喋りもしなかった口へ手が行ったのは、こみ上げた吐き気を堪えるためだ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。ひどく息苦しい淀みきった空気。訳の分からない女。何が潜むかも分からないこの船。そこで今まで生きてきた俺。何もかも全部。
話はまだ続いていた。だがあのうちのどれだけがそれをきちんと聞いていたのかはわからない。何もなかった。周りを気にする余裕も、聞こえてくる言葉を文字に直す余裕も。