9.功績、あるいはあなたの徳

『一週間待って欲しい』、自らの過去についてそう前置いた、この四畳半の小屋の魔王。
緩衝の七日はあっという間に過ぎ去って、魔王と護衛は小屋の中で向かい合う。
「……何から話せば良いのか、考えてはみたけれど」

 テーブルの上に二人分のカップと、カバーの被せられたティーポット。そして俺の差し向かいに魔王様。
 ティーセットは俺が来た時にはもう用意してあった。まるで来客でも迎えるように。
 
「そうですね。始めから話していくのが、いちばん理解がしやすいでしょう。
 けれど、そうして理解を促しても。きっと、あなたにはとてつもない夢物語に聞こえることでしょう。
 これからの話のどれだけを信じるかは、あなたに任せます」

 まずはそう言って、魔王様はカップを持ち上げその中身を僅かに含む。
 主人(ホステス)よりも先に飲むのは礼を失するというマナー程度は俺も知っているし、無論魔王様だって然りだろう。気を遣ってくれたのかもしれない。
 いつもながらその心遣いに痛み入る。魔王として世界を救う戦いに挑んでいることも、俺を右腕としてその側へ置いていることも、こうしてその胸の内を明かしてくれるということも。その全てが決して俺のためばかりでなく、魔王様自身のためのものも多大に含まれているとしても。
 
「問題などありません、魔王様。このアルフ、魔王様の仰ることを疑うなどと畏れ多いことはいたしません」

 そう答えたのは、その常日頃の返礼も含めてのことだ。
 もちろん、魔王の忠実なる右腕たるものそう答えるものである、という姿勢も含むけれど。そんなポーズを超えて、その言葉は俺のまったくの本心から出ていた。
 真っ直ぐに見つめた先の魔王様の瞳がゆったりと伏せられる。

「そう。ありがとう、アルフ……では、始めましょうか」

 そう柔らかく呟かれた言葉の後、一転してその表情はすっと硬くなる。
 それこそがこれから、重大な秘密  その過去に触れるという合図。
 
 
「私は……過去に、こことは異なる世界を滅亡より救ったことがあります」
「はい?」


 思わず目が点になった。ついさっき言ったことを全力でひっくり返すくらい驚いた。
 魔王様は少しだけその表情を緩めた。その笑みに漂う色濃い諦観は、俺がこれほど狼狽えていても読み取れるほどにはっきりと形を持っていた。
 
「もちろん、私たちだけの力などでは決して成し遂げてはいないのだけれど。
 それでも私たちは、滅びをもたらすものを討てと世界から期待された者たちで。
 そして、それを現実とした」
「……すると、魔王様は……」
 
 魔王様が静かに語るその中身を俺が呑み込むにはその数倍の時間を要した。
 滅びをこそ滅ぼした者。それを世界から望まれ期待された者。
 それは今ならば魔王と呼ばれるだろう。けれど俺はそれよりもずっと似合いの名前を知っていた。
 今や古代の書物の上でしか、その意味で使われることはなくなった言葉を。
 
「勇者、なのですか? 魔王城で迎える客ではなく、古代の伝説に謳われるような……?」
「そう呼ばれたこともあります。
 呼び名とは皆好きなようにつけるものですからね。そうと見なされる功績を挙げれば、名は後からついてくるものです。
 あなたが私を魔王と呼ぶのも、また同じ事でしょう」
「……本当に……?」
「私は私に起きた事実を述べているつもりですよ。
 あなたが信じるかどうかは、先も言った通りお任せしますが」
 
 震える声で吐き出した問いは、いずれも何の気もなくあっさりと肯定される。
 魔王様にとっては、本当に何でもないことなのだろう。それは単に、本人の過去に過ぎないのだから。
 だが相対する俺にとってはまったくそうではない。今一度姿勢を正す。
 
「いえ……むしろ、疑う余地もございません。勇者としての経験がおありならば納得がいくことばかりです。
 『アンデライト』の民たちへの対応も、滅びへ立ち向かうその魔王としての魂のあり方も」
「そう。信じてもらえるなら、とても嬉しいことです。
 ……あなたは、そうした古の勇者たちの物語に詳しそうですね」
「は、はい。多くを嗜んできていて」
「では……
 世界を救った後、勇者とはどのような経歴をたどるものなのですか?」
 
 困った、やはり魔王様はすっかりお見通しだ。この黄金が全てを支配する世界において、『勇者』の古き意を答えられる者はそうそういないとはいえ。
 だが聞かれたからには答えないというわけにはいかない。
 視線をテーブルの上へ落とす。素朴な木目は集中と共に視界からふっと消えて、代わりに幾度も読み返したストーリーが脳裏を躍る。
 
「そう……ですね。
 旅の中で得た伴侶とともに過ごし後生を終えるとか、成し遂げた偉業に相応しい……例えば王の座に就くとか、そうした話が多かったかと思いますが……」
「それは存外、現実に照らしても外れてはいないでしょう。
 教養、知識、人脈、血統。王の座に就くには、あまりにも必要なことが多すぎますが……
 兵士長といった実力者としての地位ならば、むしろ適任は私たちの他にはいなかったでしょう。
 そういったわけで。私もまた、ひとかどの地位には収まりました。……『過学者』の長として」
「カガクシャ? ……魔王様は……カガクシャの一人だったのですか!?」

 思わず声を上げる。元よりその名を名乗っていたのは他世界から流入した者達だとは聞いていた。
 だがその一人が、まさか目の前にいようとは。そして俺が散々言ってきたカガクシャたちへの悪罵をもっとも近くで聞いていようとは。
 勢いよく血の気が引いたのが、目の前で話しているこの人にわからないはずもないだろう。けれどあえて、魔王様はその追及を避けてくれたようだった。

「おそらくはまた、この世界の言う『カガクシャ』とは違うものですよ。あるいはその名前の元になったひとつかもしれません。
 過去の学者。遙かな古代に作り出され地に埋もれた遺物たちを探し出し、調査する職務を持つ者です。
 けれどそれも過去のこと。人とともにあるには、私は強大になり過ぎました。
 気分を損ねればひとひねりで誰かを殺してしまうかもしれないほどの力の持ち主を、側に置いておきたいと思える人間はそうそういませんからね」
「魔王様はそのようなお方では…!」
「そう信じてくれるなら、よかったのだけれど。そうは思わない人々も、数多いるのですよ。
 それに。私の種には、とある掟がありました」
「掟?」

 聞き返せば魔王様は小さく頷いた。それから言い出すまでに、しばらくの間が空いた。
 どう伝えるかをずいぶん迷っているようだった。そうしてぽつりぽつりと、呟くように口から出された言葉は。

「生まれたのちに五十の冬を過ぎ越したものは、人の世を去りその席を生まれ来る者へ明け渡さねばならない。
 荒野に生きていた頃の掟を、未だもって私たちは持っていた。老いたものではなく、生まれ来る者を生かすためのものを……」
 
 まるでこのできそこないの世界に迫る刻限のようで、けれど世界を救った者へ課されるにはあまりにも無慈悲な代物だった。
 
「魔王様は……世界をお救いになった。なのにですか!?」
「ええ。例外は、ありませんでした。あるいはあと十数年遅ければ、状況は変わったかもしれない。
 けれど、やはり。人、それも大多数を軽く殺せる力の持ち主を側に置いておきたいと願う者はそういないのです。
 そして五十年目の冬は、そんな私を放逐できる好機でもあった」

「掟として定められたもの。感情として、私に向けられたもの。
 私を追う滅びは、その二つ」
 
 そこで魔王様は一旦話を打ち切った。悲しみが故にそれ以上言葉が出て来ないようにも見えた。
 けれど次の一瞬で、そんなことはないと悟った。涙さえ浮かべ悲痛の淵にあったはずのその顔には、もはや何の表情も浮かんでいなかったからだ。
 
 
「さて。
 聞こえの良いことだけを並べるなら、話はここで終わりです」
 
 
 そう述べる声もずっと平坦で、まるで先までとは別人が話しているようだった。
 聞こえの良いこと。聞こえの良いこと? 世界の壁さえ乗り越えその身にまとわりつく滅びの気配の出所、追われ逃げ延びた経緯の話が?
 
「……え?」

 何を言っている、とさえ聞けない。ただ一音を呟くのが精一杯だ。仮面じみた無表情から漂うのは有無を言わさぬ威圧感。俺如きが何かしらの口を挟めるものでなんかあるもんか。
 ああ、でも。
 これが『本物』の勇者の凄みか、と他人事のように感じた。それに気圧されてドラゴンに睨まれたスライムのようになっているのは当の俺だというのに。

「被害者の顔ならば、いくらでもできるでしょう。年を重ねれば自然と、それらしいことは積み重なってくるものです。
 ただ、それだけを語れる人間はごく少数に過ぎません。
 英雄が英雄となるために何を成したか。英雄が英雄となったあとに何を成したか。
 その話をしましょう。私を追う滅びとともにある、私がもたらす滅びの話を」