8.滅亡、あるいはあなたの燃料

『アンデライト』を救った魔王城にあるカレンダーは八週目を数える。
滅びの予言が示した刻限までは残り半分を切り、その存在が嫌が応にも意識されてくる頃だった。
「……9999階層のどの商圏にも、『アンデライト』の猫の姿が見えなくなったとのこと。
 領地でまた彼らを迎え入れることができたのではと、市井は噂しております」
「ええ、私の元へもメルサリアからの手紙が届いていますよ。あの後の話です。
 無事に彼らは窮地を脱したそうですよ。そしてもはや、誰も彼らを脅すことはできないでしょう、ともね」
 
 出勤直後の状況報告は、またも魔王様の方が情報が早いが故に特に役立たないという結果に終わった。そりゃそうだ。当の『アンデライト』救援作戦の首謀者から直々に連絡が届くのだから。
 手紙を見せていただいても、と聞けば魔王様は屈託なく頷いて、こちらへ手紙を渡してくる。いつもの4人の名前の他に、また何やらカガクシャらしき名前が増えていることには軽い頭痛がした。そして揃いも揃って緊張感のない文字と文面のカガクシャ二人がよりにもよって今一番に差し迫っていそうな危機、あの眼鏡男の反撃だか報復だかの話をするものだからいっそうイラついてくる。
 だが今日の俺は先週の失敗をそれなりに反省しているし、意識して怒りを鎮めようという気もある。カガクシャどもの手紙を閉じて他の魔王からのメッセージへ視線を移すことで、何とか損害は手紙の数枚がしわくちゃになる程度で済ませた。
 その文言が記すのは、魔王達の支援を受けた『アンデライト』の顛末。魔王達が売った品物による備蓄は50年分にも及び、次元の狭間という何者にも侵せぬ要塞の彼方に籠城したかの魔王城はまさに無敵と化したらしい。
 喜ぶべきことだ。実に喜ぶべきことだ。『アンデライト』が救われたことも、禁忌選定委員会  魔王抹殺派の目論見を挫いたことも。
 だがどうして、こんなに釈然としないのだろう。
 
「望まぬ滅びは誰もが受け入れがたいもの。それを避けるための一助となれたのならば、願ってもないことです」

 満足げにゆったりと呟かれた魔王様の言葉で、徐々にそのぼんやりとした違和感がはっきりと像を結んでくる。
 そうだ。
 いくら物資があったとして、この世界にそれを使い尽くす『50年後』は訪れないからだ。
 さっき半分近くを読み飛ばしたカガクシャどもの手紙にも、世界そのものに迫る望まぬ破滅、それを回避するための「おもてなし」の話があった。刻限はもはやそう遠くはないのだと。
 
「……この世界もまた、望まぬ滅びを迎える定めにある存在。『アンデライト』はそれに先立ち、危機に陥ったに過ぎません。
 世界を救うための魔王達への試練もあと二ヶ月足らずに迫っております。
 魔王様ならば乗り越えるものとこのアルフは思っておりますが、重々ご承知の程を」

 手紙を一旦テーブルへ戻しつつ心を過ぎったその危惧を伝えれば、魔王様は無論と言った調子で頷く。そして手紙を広げて丁寧にしわを伸ばし始める。すみません。すみませんってば。
 
「ええ。……何を成せばいいのかはわからないけれど。きっとそこにも、剣を伴うことはないのでしょう?
 この世界で、もう剣が振るわれることはないのですから」
「無論です。『黄金の楔』の支配の元では、世界を救うための戦いさえも黄金のやりとりへと変わるのですから。
 委員会の女も、手紙の中で試練のことを『おもてなし』と呼んでいましたね? おそらくは常通り、商売をすればいいのです。
 この滅びより世界を救う、救済の神へ」
 
 正確には、世界を救うのが何なのかは誰にも分からない。分かるのはただ、それが神の名の下に布告された試練であるということだけだ。俺がその対象を救いの神と呼んでいるだけで。
 魔王様は常の通り、その頭から生えた獣の耳だけを器用にこちらへ向けて話を聞いていた。作業が一段落したところでようやく上げた顔には、どこか拍子抜けといった調子の表情が浮かんでいる。
 
「そうして世界が救われるなら、なんて平和的なのでしょうね。
 それがこの世界の現実である以上、こうした言い方をするのも何ですが」
「魔王様ッ!!」

 そしてその表情の真意を知った時、俺はほとんど反射的に叫んでいた。
 不意の驚きに見開かれる瞳のアイスブルーが、冷静さを呼び戻せと呼んでいた。そうだ、落ち着け。伝えるべきが伝わらない。これだけは伝えておかなくてはいけないのに。
 一度深く息を吸う。吐く。跳ね上がった鼓動を少しだけ元に戻す。そうしてから。

「……いくらその手に剣を執らずとも、相手取るものは滅び。世界を喰らい尽くすものです。
 俺達が客として迎える勇者にも、元は魔王であった者が数多くいることはご存じのはず。滅びに急かされるようにして……自らの求める享楽を最後に選んだ者達です。
 俺達が相対しているのはそうした現実であること、くれぐれもお忘れなきよう」
 
 魔王様の過去と剣には、おそらくはこの1万階層にも届こうかというダンジョンよりも深いつながりがあることくらいは俺にだって予想が付く。だからといってこの世界に迫る滅びを軽んじられても、それへの抵抗を楽なことだと思われても困る。魔王様は戴くその称号の通り魔王であるのだから。滅亡よりこの世界を救う者の一人であるのだから。
 俺の剣幕は、魔王様が表情を変えるに値したらしい。すっと下がる眉尻、伏せられる瞼。
 
「……そうですね。失言でした。ありがとう、アルフ。
 けれどあなたの……滅びに急かされる、というのは。実に的を得た言い回しですね」
「えっ。……そうですか? ありがたき幸せ」
 
 そして告げられた不意な褒め言葉に、今度は俺の方が目を丸くする番だった。思わず素が出る。
 魔王様はそんな俺を見て暖かに微笑んだ後、ゆっくりと言葉を続けた。
 
「世界の滅亡という形で自らの刻限を切られれば、行動する他に道はなくなる。
 もてなしを受け、商品を買い、心を満たされて死んでいくことを選んだ勇者も、店を構えて試練に備えることを選んだ魔王も、禁忌となる魔王を封ずることで世界を延命させようとしている委員会も、きっと同じこと。ただ、選んだ道が異なったというだけです。
 ただひとつ、滅びのもたらす効果があるとすれば……それは、人々が死力を尽くし、望みへと向かうための力となることでしょう。
 この世界にある、滅びの魔術にも通じることだけれど……」

 業体滅術。
 魔王城の領域内に虚の穴を穿ち、そこから引き出した滅びの力そのものを身に纏う魔術。あるいは逃れられぬ経営危機に陥った店舗が行う、閉店セールによる最後の足掻き。
 避けるべきものの断片を使役するという術を、一体誰が考えついたのかはわからない。だがそれは『楔』によって外敵へと振るわれることを禁じられようとも、その活躍の場を商売へと変えて未だその重要な位置を占め続けている。
 それのもたらす力は焦燥によく似ている。魂そのものを緊張の元に置き、全身の産毛の一本までも逆立てて周囲を伺うような。
 異界の魔王は撤退不能となる円陣を起動させ、自らの従える護衛たちを死にもの狂いで戦わせることによって勝利を得たという。かの魔王に仕える護衛とは、こんな気分だったんだろうか。
 魔王様は自らの魔力と技術をもって、その力を掌中に収め利用している。丁度アンデライト商戦の終了直後、先週からだ。
 そしてそれよりも前から。この小屋が魔王城となって営業を始めた直後から、魔王様は滅びへ手を伸ばした段階としての術  心魂滅術を絶えず張り巡らし続けていた。微弱ながら当然の顔をして、滅びはこの店に纏わり付いていた。当たり前のように、魔王様は滅びの気配とともにあった。
 
「……魔王様」

 以前の俺であれば、きっと前のように口を噤んだだろう。
 だが結局、そうしていられる時間もそこまで長くはないのだ。初めは4週の後と予告されていた『アンデライト』救援作戦の日があっという間に来ては過ぎ去ってしまったように、まだ6週あると思っているうちに滅びの日もすぐさまやってくるに違いなかった。
 だから今、聞いておかなければと思った。早すぎると思うくらいで、きっと丁度良いかもしれないと。
 
「魔王様が、己が手足の如く滅術を操られることは存じております。
 けれどそれは……魔王様の資質そのもの故、ではありませんか?
 俺は……あなたが追われる身であることもまた、心得ております。ですが……追うそれは、滅びそのもの、なのですか?」
 
 滅びが私を追いかけてくる、と。業体滅の術陣を起動する魔王様がそう呟いたのを、俺は確かに聞いた。
 それは今更驚くべきことではなかった。魔王様は初めから追われていた。それが何にかも、何故かも知らなかったけれど。
 
「聞いていたのですね」
「……すみません」
「いいえ。口に出したのは、私ですからね。耳に戸を立てられぬこと、私はよく知っていますよ」
 
 少しでも魔王様が話すことを躊躇うようならそこですぐさま退こうと思っていた。踏み込んだのは俺で、踏み込まれたのは魔王様で、受け入れるかどうかを決める権利は俺にはない。
 けれど魔王様の口元は、緩やかに優しく弧を描き。
 
「……長い話になりますよ。この老体は、ずいぶん思い出まみれですからね。
 それでも良いなら。……そうですね。一週間、待ってください。
 この場でとりとめもなく話をするには、あまりにも長すぎる……」