7.名前、あるいはあなたの呪物

『アンデライト』援助作戦はつつがなく終了し、魔王たちは元の次元へ帰還する。
援助作戦のさなか四畳半の小屋が記録した目覚ましい売り上げは、マーケットが発行するランキングにも刻まれていた。
「……お見事です、魔王様!」

 週報から顔を上げる前に、俺はもうそう叫んでいた。同じような内容は既に先週の営業が終わった辺りで告げていたけれど、もう一度言うだけの価値は十二分にあった。
 マーケット発行の魔王週報は、全魔王のうちでも有数の実力者の名を連ねている。より多くの富を積み上げし魔王、より多くの勇者を自らの店の虜とした魔王、各々の専門技能により精通した魔王。様々な分野で一線級の力を誇る魔王の存在を、この9999階層に城を構える者すべてに向けて伝えている。
 来るべき世界の滅びを回避するために切磋琢磨する上での指標として、そして滅びを乗り越えた先に待つオーバーロードの座を争う上での標として。
 魔王様は初めてのランキング入りを、魔王たちが一際力を入れた『アンデライト』支援商戦で成し遂げたのだ。
 興奮を隠さぬ俺とは対照的に、やはり魔王様は静かに笑みを浮かべるばかりだ。けれどそれが魔王様の喜びの表し方であると、俺はちゃんと知っている。
 
「言ったでしょう? 『アンデライト』の方々は、必ずや情報やひとときの日常を求めるはず、と」
「はい。……重ね重ねとなりますがこのアルフ、改めて人心を見透かす魔王様のご慧眼に感服いたしました」
「年の功というものですよ。齢を重ね経験の上に立てば、あなたでもきっと到達できるところです」
「魔王様のいらっしゃる天座へ至るには、俺では時期尚早というもの…!」
 
 魔王様はその業績を誇れども、その力を特別だとは思っていらっしゃらない。
 だがそれは間違いなく着目されるべきことで、魔王様の特色のひとつであろう。
 ならば一つ絶対的に足りないものがある。この業績の中で、たった一つそれだけが俺の不満だった。

「……しかし、これだけの功績をお持ちの魔王様が名でもってその力を示せぬこと、俺は心より無念に思っております。
 今からでも魔王としての名を名乗られては?」
 
 名である。
 《乾いた静物の魔王》、《切り裂く紙片の魔王》、《仇花に灰を落とす魔王》。魔王様に逐一手紙を送ってくる彼らを引くまでもなく、魔王とは相応の二つ名を名乗るものである。
 実際に、毎週のように週報に名を連ねる魔王の中には《白銀》、《鋼線》、《濁眼》、《暁》と、その通り名だけでそれと知れるほどの実力者が多数存在する。
 だが魔王様にはそれがない。いやあるが、そこに連なる名が《老猫》ではあまりにも格好が付かない。
 由々しき事態である。少なくとも俺にとっては。
 けれど魔王様にはその重要性が未だに分かっていただけないらしい。
 
「私はもう、ただの老いた猫に過ぎぬ身の上。仰々しい名前は、その「魔王」という呼称だけで十分すぎるくらいですよ」
「しかし! ……俺であれば『魔王様』とお呼びすれば良いですが、必ずや支障が出ます!
 書庫に出かけた時や、他の魔王と連絡を取る時……魔王同士互いに呼び合う時のため、どうか魔王という座に相応しき名を」
「呼び名がないのなら、皆相応のものを考え出すものですよ。名前というのはそうして生まれるものでしょう。
 たとえ名前があったところで、人は人を好きなように呼ぶものですから。あなたが私を魔王と呼ぶように」

 そう言われてしまえば言葉に詰まってしまう。
 魔王になるが良いと告げたのは、魔王になってくれと頼んだのは俺で、言うなれば俺はその時、魔王様に魔王という名をつけたのだ。名も知らぬ老魔女に、魔王という呼ぶべき名を見出したのだ。
 そうして結局その真の名を今の今まで知らぬまま、主従という関係はさほどの問題もなく続いている。名を持つべきだと主張している俺が、図らずも名などいらないということを証明してしまっている。なんてことだ。

「そも、自分で考えた名を名乗っている者などごく少ないものです。私は数少ない、そちら側にもいる者というだけ。
 そうでしょう? 『煮える鍋の』アルフ」
 
 続く魔王様の言葉をなんとか呑み込もうとして、その末尾の名が強く喉に引っかかる。呼ばれるばかりの腹中の鍋が、まさに煮え返る。
 それこそは忌むべき俺の気質で、忌むべき俺の名で、俺が名乗りたいとは一度も言ったことはない名だ。他の城へと出向く時にさえ、一度たりともその名を使ったことはない。
 周りが俺を呼び指す嘲笑の色が、そこには強く滲み出ているからだ。
 願わくば魔王様が俺をそう呼んだことさえ俺の聞き違いであってほしかった。浅ましくも、魔王様までも俺を嗤うのかと疑ってしまうからだ。
 だが否定しようはない。聞き間違うほどの距離も騒音も、この四畳半の小屋にはない。それどころか、魔王様は明らかに、その名に込められた望まぬ意を悟った上で。
 それを悟った瞬間、反射的に振り下ろされた拳は何とか魔王様には向かわなかった。部屋の中心を占める古びたテーブルが、殴打の衝撃に大きく揺れる。
 
「……魔王様と言えども、その名で俺を呼ぶことは看過しがたく!!」

 外までも響くかと思われた怒声と打撃音に、魔王様は思わず身をすくめその耳を両手で守った。労る声をかけるような余裕はない。俺はその言葉を、せめてもの礼節の型に嵌めることで精一杯だったからだ。
 そして追い打ちを放たぬように、獣のように荒ぶる心を鎮めることに徹していたからだ。
 いくばくかの沈黙の後、先に気を取り直したのは魔王様だった。
 
「…………申し訳ありません、あなたがそこまで怒るとは思わなくて」

 そこに色濃く滲む気まずさを聞いてとってもまだ収まらない業怒にこそ怒りたかった。俺がその感情を向けるべきは魔王様の振る舞いではない。誰であろうとそれを受け流すことの出来ない自分の器の小ささだ。
 それを頭で分かったからといって、すぐさま心が追いつけば苦労なんかしない。
 
「……重々気をつけられよ、名とは呪物です。
 この魔王城でも呪物を取り扱った魔王様ならお分かりのはず。
 それは俺をカルマへと墜とす鍵となりうる。俺はまだ、内に広がるその闇へと墜ちたくはありません」
 
 取り繕った格好は型に過ぎない。
 偉大なる魔王を支える右腕はそれに相応しい態度を取るものだ。主へ声を荒げることなく、堂と構え進言する。例え怒りの最中にあっても。
 その理想にほど遠い俺を無理矢理にその形にするための型だ。
 
「ええ。あなたの言うところ、魔術師の名とはその力と密接に結びつくもの。そして……冗談でも、俎上にこの名を上げるべきではありませんでしたね。
 そうしたものを不用意に扱った私に非がありました。以後、その言葉を心に刻みましょう」
 
 礼の言葉の代わりに深く頭を下げた。これ以上、互いの他に見るものもない状況には耐えられなかった。
 けれどその先で目に入ったのは汚れた床板、そして視界の端に映るのは、拳を握り締めた拍子にぐちゃぐちゃに潰れた魔王週報。
 ついさっきまで喜ぶべき話をしていたのが嘘のように、小屋の中には沈黙ばかりが流れていた。どうしてこうなったのかと考えるまでもなく、原因は俺にしかなかった。
 謝るべきはどう考えたって魔王様ではなく俺の方だ。どうしていつも、と頭を抱えたかった。
 90度になった頭をさらに下げた様子は、まるで小さく丸まっているように見えただろう。
 もうあまり下を向いているべきではなかったけれど、向ける顔があるとも思わなかった。重力に引かれる涙は、ぎりぎりのところで未だ両眼を覆う膜としての形を保っていた。