6.過去、あるいはあなたの秘密の部屋
いよいよ『アンデライト』援助作戦決行の時。
禁忌指定による断絶を突破するためのワープゲートの中、四畳半の小屋には二人の声だけが響く。
「……暗くなりましたね」禁忌指定による断絶を突破するためのワープゲートの中、四畳半の小屋には二人の声だけが響く。
「深部潜行に入ったのでしょうか。術式の詳しい理論立てが気になりますね」
原色を混ぜ合わせためちゃくちゃな色をしていた小屋の外は、いつしか灯火の消えたように真っ暗になった。
もし何かがあってこの9999階層中の照明が消えたとして、常ならばこの部屋の中から漏れ出る光で少しは周りが窺えるはずだ。だが、それもない。光そのものがどこかへ呑み込まれているような、ひたすらな暗闇と無音が魔王城を包み込んでいる。ここだけではなく、おそらくはいずれの城をも。
『アンデライト』へ向かう道中は、あの委員会の女
この機に乗じてこの闇に勇者を潜ませておくつもりか。あるいは、この技術で魔王を階層から放り出すつもりか。
闇を見上げながら様々にあの女の考えを読もうと考え込む俺とは対照的に魔王様の声は純粋にその言葉通りといった調子で、裏の意図など存在しないかのように本当に仕組みそのものを不思議がっているようだった。
「魔王様はやはり落ち着き払っていらっしゃる……」
「だって、私自身が似たようなことを経てこの世界へ辿り着いたのですから。私にとっては二度目のようなものですよ」
「なんと……!? 失念していました、このアルフ一生の不覚」
「いえいえ、私のことは構いませんよ。
考えてもこの術式のことはわかりそうにありませんし。今のうちに『アンデライト』の皆様へどうするかを考えませんとね」
そう言って魔王様は天窓の外から視線を外した。同様に室内へ目を戻しながらも、俺にはどうしてもその言葉が呑気すぎるように思えてならなかった。
この闇の中、『アンデライト』への旅路から抜け出ることは今や魔王城一つ程度の力では不可能らしい。この先に何が待っていようとも、もはや俺達は避ける術を失っている。
言わば俺達はもうあの女の掌の上にいるわけだ。すべての魔王が頷くであろう苦境への支援を名目にまんまと術中にはまってしまった、そんな気分がどうしてもぬぐえない。
「どうする、というと……どのような商売を行うか、ですか?
あちらは物資を求めているって話でしょう。商品の在庫を一気に放出すればいいのでは?」
「いいえ。
おそらく、今ある在庫では到底足りませんよ」
その気分を引きずったままの多少投げやりな回答を打ち据えるような、静かな否定。
疑問の表情を見て取ったか、魔王様はそのまま話を続ける。
「向かう先の彼らが物資を求めている、とは聞いているけれど……それだけに、一度に大量に買っていくお客様がほとんどでしょう。
十二分な量のモノが自分の手にある、というだけで人は安心するものです。こうした不慮の事態の際は特に。
商品はあくまで、副次的な取り扱いをしてきましたから。取り扱い点数は多くとも、今回の売り込みに耐えうるだけの在庫がある商品は一つしかありません」
「油揚げですか」
「油揚げです」
「……たしかに、あれならばいくら放出したところで十分なほどの蓄えがありますが」
「それがいいんです。食料品というのはどうしたって必要な品ですからね。
胃袋には限界があるとはいえ、蓄えには一倍気を遣うもの。どれだけの店舗が同時に売ったところで買っていただけるでしょう。
これだけの店舗が一挙に押し寄せる中で、競合を避けることは重要です」
「……魔王様のお考えの深きこと、感服いたしました」
以前に80袋買われた件の油揚げは、未だもってこの家の小さな食料庫の9割ほどを占拠している。その上、販売数よりも俺達が食べた数の方が明らかに多い。
魔王様は喜んで食べている手前、流石に飽きてきたとは言いづらい。あれはやはり単純に魔王様の好物だったのではないかと考えていたところで、この提案だ。
よかった。魔王様には不良在庫の概念が存在した。これ以上いくと俺は自分の人を見る目を疑い出すところだった。
心からの安堵を滲ませながら頭を下げる俺に、魔王様はそっと首を振る。
「いえいえ。実際に働いてもらうのは、あなたを始めとする護衛の皆様にですよ。なんたって、売る商品は一つだけですからね。
他にも売りを持たなければなりません。あなたがたのサービスという形で」
「サービス……ですか?」
その言葉に思わず顔を上げる。上げた声には自分でも分かるくらいありありと疑問の色が浮かんでいた。
閉ざされ、外部からモノを供給されなくなった『アンデライト』を相手に、物資ではなくサービスを提供するというのがどういう形を取るのか、そのイメージが浮かばなかった。
「ええ。普段は占いや、魔法を教えてもらっていますけれど。
今週は、ただお客様に話をしてあげてください。外の話を求める方には、外の話を。
この禁忌指定がどう伝えられ、私たちとそれを支えてくれた『魔王守護派』が、どう思いどう動いているのかを。
そうでなくとも。ただ一時、ともに笑える相手となってあげてください。
世間話でも、たわいない話でも。
思いもかけぬ事態に巻き込まれて一様に暗い顔をしていると、そうした話のできる方が欠けてくるものですから」
その俺の頭に、魔王様の言葉が鮮やかに刻み込まれていく。
この人は、禁忌指定によって『アンデライト』から失われた日常を少しばかり取り戻そうとしているのだ。
新聞を読む。ニュースを聞く。それをネタに出会った人と話をする。届いた手紙を読む。人の状況を知って声をかける。そんな当たり前のことを。
だが当たり前だからこそ、それは『売る』にはあまりに頼りないように思えた。
「……魔王様。『アンデライト』の臣民は……それを『黄金の楔』の上に載せることを望むでしょうか?」
「代金を払うに足りるか、ということですか? ええ。私が保証します。
それは有事の時にもっとも欠けるもの。どれほどの黄金を払えども得られぬものです。
この魔王城においては。その提供をもって『アンデライト』を支援させていただきますよ」
弱気な問いかけは、当然とばかり一蹴された。魔王様の目は、俺とは対照的に自信に満ち溢れていた。
それを見たならば返す言葉はただ一つ。
「かしこまりました。仰せのままに」
「ありがとう。よろしくお願いしますね」
魔王様は満面の笑みを浮かべて、軽く頭を下げた。
臣下にそんなことをする必要はありません、と止めようとした口から声が出なかったのは、すぐに魔王様の表情が曇ったからだ。
そのまま目を伏せ、眉根を寄せる。その沈痛さがどこから浮かび出ているのか、俺は知らない。
「……武具があるならば、私はなんとしてでもそれを売ったでしょうけれど。
追われた時最後に自分の身を守れるのは、自分だけですもの。
でも、この世界では。それは売れないのでしょう? あなたの言う『黄金の楔』によって」
「はい。武具はもう、この世界に需要などありません。この禁忌選定委員会の横暴の最中にあってもです」
魔王様は幾度も、マーケットの品に武具という種別のないことを確認された。
この世界にもう武具の居場所はない。護衛たちの種別を示すため、ユニフォームの一環としてその名残を残しているだけだ。
苦境にある『アンデライト』の民にも無償で物資を提供できないように、今この世界で武具を得たところでそれを振るう機会は永遠に訪れない。
古代においては力なき者が己の命を担保としたという。また古代においては金を持たぬ者が戦功でもって城ひとつを得たという。
剣も命ももはや取引の俎上には上げられない。取引の俎上に上げられないモノに、この世界は見向きもしない。
金に換えられないモノには何の価値もない。故に救援物資にすら金を積んで、その価値を保証する。
それこそが黄金の楔。この世界に生きるあらゆる存在を縛る、世界そのものが交わした契約。
「…………。
そう。武具が必要でなくなった世界というのは……こんなにも、歯がゆいものなのですね」
呟いて、魔王様は天井を仰いだ。その表情が悲痛に歪んでいることは、横顔ですらよく分かる。
天窓から覗くのは何の変化もない漆黒の闇だ。未だ『アンデライト』到着までは遠いようだった。
「魔王様……」
返す言葉もなく、俺はそう呼ぶしかできなかった
それはどうしても殺しきれなかった、心に浮かんだ問いかけの一部だったからだ。
やはり魔王様は、かつてこのような苦境におかれたことがおありですか?
それは目の前で悲哀に浸る人に問うにはあまりに酷なものだから、それきり俺は言葉にするのをやめてしまって。
「……楔の下では、委員会の連中ですら禁忌へ剣を振るうことは赦されません。
俺達ではなく、世界がそれを赦しません。
ご安心を。『黄金の楔』は武器持たぬ者の力。魔王様がお心を痛める必要はございません」
代わりに出たのは、そんな回りくどい励ましだ。
魔王様はただ、そうね、とだけ返して口を噤んだ。俺もまたそれ以上、言うべき言葉を持たなかった。
それきり四畳半の小屋にはただ、沈黙が満ちていた。