4.面影、あるいはあなたのプリンス
禁忌に指定され、世界より断絶されかかった『アンデライト』の魔王城に対する援助作戦。
その準備を進める傍ら、四畳半の小屋に届いたのは他の城に住まう魔王城からの手紙だった。
『彼は現在、こちらの城にて勤めております。その準備を進める傍ら、四畳半の小屋に届いたのは他の城に住まう魔王城からの手紙だった。
彼ともども、あなたのご来訪をお待ちしております。』
結びの一文を書き終えて顔を上げる。手紙としては、ここに至るまでの全文を読んでも決して長いものではないだろう。どっと俺にのしかかってくる疲労とはまったく無関係に。
「終わりましたか?」
「……なんとか。よろしければ、魔王様も目を通し……いえ、なんでも」
「いえいえ。私の名を貸すのですから、私も内容を把握しておかなくては。『真の名は己の力に通ずる源』なのでしょう?」
「うっ」
目の前の手紙には確かにその文言が書いてある。そして俺も、過去に一度その話を既に魔王様へしたことがある。魔術師が名を秘するもっともポピュラーな理由の一つ。
マーケットを見渡したところで自らの名を名乗る魔術師も、魔女もさほど多くはない。それを言えば弓師だろうと魔獣だろうと大して変わりはなく、雇い主に対してといえども護衛が名乗る習慣は未だこのできそこないの世界には根付いていない、というのが正しいのだが。
そしてまた、護衛に対しても自らの名を名乗らぬ魔王も少なからずいる。《乾いた静物の魔王》、《切り裂く紙片の魔王》、《仇花に灰を落とす魔王》、そうした魔王としての通り名しか名乗らぬ店主が。
そして魔王様もまたその一人だ。通り名ですらない。『老いた猫に過ぎない』そう自らの存在を告げるその言葉しか周囲に知らせてはいない。
「俺でさえ魔王様の真の名は存じません。同じ魔王とはいえ、この手紙にそれを添えることもないのでは」
「ええ。ですが、魔王としてあるいは店主として、私の名義での保証を行って出す手紙です。万一何かしら、失礼があっては困りますので」
「そんなことを言ったらそもそも、この名義貸しそのものが……」
「次はありませんよ? 嘘というのは、貫き続けることが最も難しいのですから」
「無論、そのつもりです。……ところで魔王様。この嘘が真実へと変わりし時、どうされるかを今一度お教えください」
「その時は、あなたが応対して差し上げなさい。仮にも、城に一度招き入れられた顔見知りなのでしょう?」
マーケットはすべての魔王に商品や建築資材を販売する卸商であると同時に、護衛にとっては自らの実力と求める給金を提示し、雇用される先を探す場でもある。
かなりの高給を設定した俺はどこともさほど長期の契約は結べなかった。そんな中で俺を迎え入れた数少ない城のひとつが、契約が切れるにあたって魔王様の城へと手紙を送ってきたのだ。魔王様へ俺について聞くと共に、どうか俺へ伝えて欲しいという伝言を。
それをご覧になった魔王様は、ほとんど間を置かず『あなたへの手紙だ』と俺にそれを差し出して、返事を書くように命じたのだ。名前は自分のものを使っていいと言いながら。
かくして今しがた書き上がったのがその返信である。冒頭ならず中頃あたりまでもうインクの乾ききったその文面に魔王様の視線が落とされる。
俺自身のやるべきことは終わっているにもかかわらず、ぐっと全身に力が入っていく。高まる緊張はけして良いものじゃない。それは殴られる直前に、思わず腕を身体の前へ持ってきて身を守ることによく似ている。
俺の振る舞いを見た時、書いた文面を見た時、口にする言葉を聞いた時。そういう時相対した相手がどう思ったのかなど、見るには一瞬で十分だ。いくらその後を取り繕われたところで、そいつが俺をどう思ったのかは最初の一瞬で透けて見える。本心が出るのは、たいてい隠すよりずっと早い。
だからそれよりも早く身構えておく。根付いた習慣はなかなか抜けない。
いくら仕えるべき人だと仰いでこの身を側に置いても、俺は未だにこの人が全部のことは受け入れてくれないかもしれないと疑っている。この反応がその証であることが余計に嫌だった。
窺う先の魔王様の表情は、
そのままにすらすらと書かれた文字を読み終えて、魔王様が口を開く。
「立派なものだと思いますよ。名義と筆記者以外は虚言を弄しても、特段の礼を失してもいないでしょう。
名のくだりの真偽については、この世界に不慣れな私よりもあなたの語る方を信用するとして。
勇者だけでなく魔王がこの城を訪問するとしても、私は迎え入れる意志がありますよ。あなたと同じように」
「……魔王様は笑わないんですね」
一気に全身の力が抜けるとともに、潜めていた息が一挙に吐き出される。
魔王様が笑ったのは文面ではなく、そんな俺の様子そのものだった。
「私のふりをしてあなたがあなた自身のことを書いている。この構図を見て笑う者はいるとしても、それは私ではありません。
あなたの言動そのものを笑うならとっくの昔に笑っていますし、名義も貸しやしませんよ。
そんな心配をする余裕があるのなら、私よりも手紙の受け取り主のことを心配してはいかがですか?」
「仕える城が変わったとて、魔王の配下としての、そして眼に『力』を宿す者としての俺の振る舞いを変えるには不足。
その上でこれだけのお言葉をいただけるとあれば、この手紙程度……まあ……問題ありません」
「歯切れが悪いですよ」
「いえ、そんなことは!……欲を言うなら『楽しい』に加えて『カッコイイ』とあればエンジェルの祝福の如きになりましたが」
「ふふふ。皆、若い頃は自分の憧れる姿に己を少しでも近づけようと頑張るものですからね」
魔王様は笑みを崩さぬまま、インクの渇かぬ手紙を置き去りに封筒の用意を始めている。
取り出されたシンプルな無地の白封筒から、俺は魔王様自身に視線を移す。
「……それは魔王様自身のご経験ですか? それとも誰か、他に俺のような者をご存じで?」
「私はどうだったでしょうね。こうしたことは他人から見る方がずっと正確だから、私から私のことは語れないけれど。
古い仲に、そんな人がいたんですよ」
「もしかして、俺をあっさり腹心として迎え入れたのはそういう……?」
「そうなるかもしれませんね。私はあなたに、彼の面影を見たのかもしれません」
俺はさして魔王様の過去を知らない。魔王様が俺の過去をさして知らないように。
俺はこの世界に流れ着いた魔王様に誰より早く出会っただけで、この世界に来てからの魔王様のことしか知りはしない。
無造作に目の前に差し出されたその未知の断片に驚きを覚えたのは一瞬。次の瞬間には興味の方がずっと勝っていた。
「よろしければ。……どんな人だったのか、教えていただいても構いませんか?」
「そうですね。
……偉ぶって、格好付けで、人の気持ちがわからなくて、冷静ぶっていても肝心なところでそれを保てなくて」
おそらくは俺の抱いたものに近いであろう一瞬の驚きの後に続いたのはごく優しい口ぶり。だがその口調で言うにはあんまりにもあんまりな内容だった。あまりにもちぐはぐすぎる。何一ついいところがない中身を笑顔で語られるのは一周回って怖い。
この形容に『面影を見た』と言われるのもなかなか精神に堪えるし、やはり魔王様にも俺はそのように見えていたのかと時間差で最大の一撃を叩き込まれた気分だ。
「……俺が言うのも何ですが、その……ある種……珍しい方ですね」
「だって、本当にそんな人だったんですから」
見え透いた言葉を必死に取り繕ってみたが、魔王様には無論そのような小細工はお見通しだろう。その上で咎めはないが発言が覆ることもない。
苦し紛れに述べようとした言葉は片手で制されて、続きはことさらにゆっくりと慈しむように述べられる。
「ただね。これと決めたら絶対に曲げないし、どんな状況に立たされようと決して諦めない人でしたよ」
「それは……」
「ええ。彼もまた、あなたの言う『魔王の素質』を持つ人と思います。
むしろ『世界を救う』なんて大それた話は、彼の方がずっと適任だと思いますよ」
魔王様がそう仰るのならきっと大人物なのでしょう、とか。ではその方も魔王としてこの世界に呼ばれるやもしれませんね、とか。それらしいことは、少し時間をもらえばいくらだって言えただろう。
だが俺はそれ以上の二の句が継げなかった。
自ら、あるいは従うべき他者の目標に向ける熱意こそが俺達ウィザードの最大の力。それを見抜き正当に評価するその眼が、正しく語られる人物と俺を見つめていたことを改めて実感して。
そしてその語り口と内容の解離が、ようやくひとつのものになって飲み込めたのだ。
それは単なる魔術師を語るものではなく、もっと深い縁を結びその人格を知り尽くした愛する同胞のことを語っていた故なのだと。