2.本能、あるいはあなたのビースト

商戦を続けるには的確な在庫補給やサービス人員の刷新が不可欠。
この四畳半の小屋においても、来週分のその注文書が記されていた。
「……魔王様、万一とは思いますが誤りのないことを確認していただきたく」
 
 そう聞きながら手渡す今週分の発注書は、俺の心配とは打って変わって紙のように軽い。紙なんだから当たり前だ。
 普段通りベッドを椅子代わりにした魔王様は至って涼しい顔で、書面に書かれた内容に視線を落としてもそれは何ら変わらない。
 元よりさほど顔に出るような人ではないが、無理に何かを隠すような人でもない。と、俺は見込んでいるのだが。
 
「はい、間違いではありませんよ。今週の発注は油揚げを80袋、それに建築用の術陣を。
 その日に売れそうな分だけ調理して、残りは冷蔵すれば大丈夫。それに、あなたたちのまかない分も兼ねてのその数です。
 ずいぶん働いてもらうのに、これまでは満足な食事も出せませんでしたからね」
「ありがたきお心遣い、……いや、では、あるんですけど」

 何の変更も加わることなく俺の手元に戻ってきた紙は、そのまま魔王様のご意志だ。
 そこからどうにも言葉が続かず、俺はその書面を視線でなぞる。
 はっきりと書き込まれた「80」の数字。
 件の食物は今週のマーケットの中でも最高の品質ではあるが、何せ食品をこんなに買い込んで一度に捌けるはずはない。
 それは魔王様も重々ご承知だろうから、先の確認をする意味なんて、言ってしまえば俺が安心できる以外は何もなかったんだが。
 
「冷蔵のための冷気は、私がここにいれば問題ありません。昔取った杵柄とはいえ、その程度はまだまだできますよ」
「やはり魔王様は魔女(ウィッチ)、零度の支配者であらせられる…!」
「まあ、昔はそんな呼び名を受けたこともありました。今そこまで仰々しく言うのは、あなたくらいですけれど」

 魔王様は魔術に対する深い造詣を持つとともに、恐ろしきまでの氷の魔術の使い手でもある。このできそこないの世界の分類に照らすならば紛う事なきウィッチ。
 今は魔王として店そのものの舵取りを行っているが、護衛として店舗で働くようなことがあればそれだけで反射氷晶円陣を動かす一角を担えることだろう。
 魔王自身がサービス展開を行う魔王城も、この世界にはおいてはありふれている。
 古来、魔王と勇者が対立していた時代。魔王城において行われる歓待(サービス)のクライマックスは、魔王そのものとの対決。血湧き肉躍る命のやりとりであったという。その名残なのかも知れない。
 今となってはそんなことはもってのほかだ。最悪、魔王としての力  レガリアを剥奪され営業停止処分になってもおかしくない。
 サービスは隠された意味を失い、文字通りのものになった。
 料理を食べ休息する。道具を買う。祈りを捧げる。カジノで遊ぶ。
 ダンジョンではなく街において行われていたと伝えられるあらゆることは、今や魔王城で行われる。もちろん、金のやりとりを伴って。

「油揚げというのも、昔に食べたものだけれど。あなたは食べたことがありますか?」
「俺にとっては未だ未知……! ただ、魔王様のような外の世界から来た魔王が持ち込んだ食べ物、ということだけを存じています」
「そう。美味しいものですよ、どんな汁と煮含めてもよく合って。料理したら一度、食べてみますか?
 勇者としてここを訪れる方々は、どんな味付けが好きなのかしらね」
「あの、魔王様。それは……」

 意識もせず自然に声を潜めていた。まだ勇者がやってくる時間でもなければ、他の魔王も来訪の予定はないというのに。
 落ち着きを崩さず薄く笑みを浮かべた魔王様とは対照的に、俺の表情は硬いと自分ですらよくわかった。
 他ならぬこの人がこうしているならば何も問題はないと分かっているのに。
 
「豆をすり潰してその汁を搾り、何らかの方法で固めた上で、薄く切って油で揚げる。
 同じ方法を思いついているのは、それは不思議なことですけれども。
 どこの世界でも、食べ物の美味しい食べ方というのも。それを求める人々の心というのも。変わらないのかもしれませんね」
 
 述べ終われば話は終わりとばかり、魔王様はくるりと向きを変える。
 ベッド備え付けのサイドテーブル、その上にある用紙とペン、それにインクへ手を伸ばして。
 
「少し待っていてくださいね。
 発注のついでに、買ってきてほしいものがいくつかありますから。メモをご用意しますよ」
 
 
 
 
 砂糖。醤油。卵。ひき肉。タマネギ。白菜。皿。鍋。フォーク。ナイフ。
 まるで引っ越し当日の買い出しだ。魔王様の状況を思えば、まさに引っ越し間もないから仕方がない。
 あの小屋にある使い古しの調理器具と一人分の食器では、働く護衛の分までの食事という魔王様の希望はとても叶えられないだろう。
 発注書の代わりに買い物袋を両手に提げて帰路を急ぐ。一人の頃はさほど気にも留まらなかった魔王向けの商品宣伝が、今はいやに目につく。
 「一瞬で広がる! 極熱砂ワールド」、最新の魔力式燃料、高品質サービスを行う護衛の短期派遣。
 その中に、件の油揚げの広告もあった。ポスターに描かれた、魔王様と同じように獣の耳を持った女はビーストだろうか。それとも魔王のひとりなんだろうか。
 
 油揚げ。ヒトのものならざる耳。身に湛えた氷の魔力。
 
「……わりとビーストでもあるかもしれないな、魔王様」
 
 脳裏をよぎったのは初めて会った時のその姿だ。
 見るからに弱りきった細い身体を助け起こして、俺はこちらを見つめるその眼の冷たさにぞっとしたのだった。
 あれは俺を躊躇なくぶっ飛ばしていくカルマ勇者の眼にそっくりだった。あるいはまさに、あの時の魔王様は手負いの獣そのものだった。
 そこから考えれば魔王様の取った手段は格段に穏やかだったが、今考えればきっとそれ以上も当たり前に用意していたんだろうな、とは察せる。
 求められた通り、俺は今この世界と、俺の置かれた状況を説明した。
 魔王様は魔王様自身のために取るべき行動と態度を理解した。
 結果として俺は魔王様の従者になり、魔王様は俺の魔王になった。
 それっきりあの眼を見ることはなくなったし、他の護衛に言ったところで信じてもらえたことはない。嘘だろって笑った奴は一発殴っておいた。
 
 魔王様は今や誰の目から見ても、品性と智を備える徳の魔王だろう。
 しかしその奥には隠しきれぬ獣性が眠っている。カルマと呼び得るだけの我を、おそらく常人よりは強く。
 俺があの時目にしたのはきっとその片鱗に違いない。そう思っている。
 魔王様に敵対的な者、例えば魔王抹殺派ならばそれを本性と呼ぶだろう。その害意こそが魔王という存在の核なのだと。
 魔王と勇者が金ではなく命をやりとりした過去においてはそう本気で信じられていたらしい。だが現代ではもう、それはほとんど風化した話にすぎない。
 魔王といえどももはやただの個人に過ぎず、その名前のみで善悪が決まるわけはない。
 逆にだからこそ、魔王様が悪である、という可能性は消えないのだが。
 
「ただいま戻りました。数々の華々しき惹句に心惹かれ遅くなりましたこと、お許しを」
「おかえりなさい。重かったでしょう、誰か手伝いに行かせようかと思っていたんですよ」

 人を見る目はあるかと聞かれて、はいと答えられるほど俺は自分に自信があるわけじゃない。
 魔王様が俺をただ利用したいだけではないのかと言われて、はっきりと否定できるほど俺はその真意を掴んではいない。
 だが俺はただ一点だけには、紛うことのない自信があるのだ。
 魔王様がこの世界の「魔王」というものに、滅び行く世界を救う者に相応しいという俺の見込みにだけは。