1.始動、あるいはあなたのウィザード
15週の後の滅びの予言。それに抗うための商売。その最初の日に向けた準備は、各地の魔王城で着々と進められていた。
この、城とも呼べぬ四畳半の小屋の中でも。
差した指の先、棚の上に寸分のズレもなく並ぶ書籍。塵一つなく掃除された床。磨かれた壁。この、城とも呼べぬ四畳半の小屋の中でも。
最高の仕事をしたつもりだ。少なくとも、今の俺にできるかぎりの。
魔王様と俺の船出に、傷がついてはならない。
「設営、終わりました」
部屋を仕切るカーテンの向こうを覗き込む。
魔王様はこの一週間を療養、そしてこの世界の知識を得ることに費やしていて、今もその最中だった。
ベッドを椅子代わりに坐っていた魔王様が顔を上げるより先に、その頭についた耳の方がぴくりと反応を見せる。
それに一拍遅れる形で頭そのものが動いた。アイスブルーの瞳の向く先が、膝の上に載った本から俺へ移る。
「ありがとうございます。こんなに遅くまで残ってくれて。そろそろ帰ってお休みになっては?」
「そんなにかしこまらなくてもいいって言ってるじゃありませんか、魔王様。
俺は魔王様の従者で、あなたは俺の主人なんですから!」
「ごめんなさい、アルフ。誰にでもいつもそう言われてしまって。これで何回目だったかしら」
魔王様は誰に対しても礼節を保つ方だ。
おそらくは、俺を従者として受け入れてくれたのも大元としてはそこに起因するのだと思う。
俺としては願ったり叶ったりだし、魔王様としても俺かどうかはともかくとして従者がいた方が便利には違いない。
「それにしても、ただの店主を魔王だなんてね。
何度聞いても不思議な言い回し。その呼び名も例えば物語だとかでしか聞いたことはないけれど」
「来訪者はよくそう言うそうですね。しかしこの世界においては悪を尽くす魔王こそが幻想の存在。
でも、俺はずっとそんな魔王に仕えたかったんです。店主という小さな器には到底収まりきれぬ魔王に!」
「私はそうした存在になる気はないのだけれど」
「存じています……」
このできそこないの世界は世界の間にある壁すらきちんと作れていないから、よく外世界人が紛れ込む。
魔王様もまたそうした一人で、この世界の魔王の成り立ちも、魔王が商売をする理由もよく知らなかった。そこに現れたのが俺というわけだ。
魔王様は俺から知識を得て、俺は魔王様という主人を得る。損は何もさせていない。そのつもりだ。
もちろん、損得以上の関係にはなりたいけれど。
「けれど俺は、悪でなくても。このできそこないの世界に生まれたものでなくても。
魔王様は、ぜったいに魔王としての素質をお持ちだと見抜いていますから。
そう、この俺の右眼に秘められた力にかけて……!」
「そうかしら? 私は、私がそんな者だとは思えないのだけれど」
「いえいえ、謙遜することはございません。魔王様は、ぜったいに魔王様です。
この俺が、あなたのウィザードが保証いたします。あなたが、魔王に相応しき力と。そしてお心をお持ちだということを!」
思わず大きく腕を広げて身振り手振りの方で語る俺を、魔王様はうっすら苦笑を浮かべて眺めている。
この人以外にそんな顔をされれば、俺は瞬間的に相手へ怒鳴り散らしたり、悪態をついたり、手が出たり、まあそういう歓迎されがたい手段に走っただろう。
だが今の俺にあるのは言動を信じてもらえないふがいなさが8割程度で、怒りはだいたい2割ほどに収まっている。俺としては驚異的な少なさだ。
これが何を意味するかは明白。
俺はようやくウィザードとして仕えられる、仕えるべき魔王を見つけたということだ。